<敗戦の悲しき午後の蟬(せみ)しぐれ幾年(いくとせ)経ても涙かわかじ>
鹿児島県南さつま市の吉峯睦子さん(98)は戦時中、軍需工場に動員され、空襲では自宅が火に包まれて死を覚悟した。特攻隊員たちの出撃基地となった地で戦後を生き、平和を願う思いを短歌に託してきた。終戦から79年。戦争を知らない世代に知ってほしい。「戦争にいいことは何もない」と。
睦子さんは高等女学校の生徒だった1944年、航空機部品を製造する鹿児島市内の軍需工場に学徒動員された。製図部門で慣れない図面を描く作業に苦労したが、「しっかりせんと戦争に負けたら大変」と取り組んだ。「軍国乙女」だった。
<眼(め)をとじて遠き戦の日々憶(おも)う火の海逃れし空襲地獄>
45年6月17日夜、鹿児島市上空に米軍B29爆撃機が大挙して飛来し、焼夷(しょうい)弾を投下した。鹿児島大空襲。睦子さんは市内の自宅で就寝の準備をしていたところだった。家は火に包まれ、消火しようとしたが煙に巻かれて意識がもうろうとした。「ここで死んでしまう」「お母さん」。間一髪で、この日、客として家に来ていた男性に助けられた。
その後、避難した防空壕(ごう)では大量のノミに襲われ、上空では米軍機の爆音が響いた。「98年生きてきて一番長い一夜だった」
<草燃ゆる真夏の基地に過ぎし日の痛魂の声湧きてたたずむ>
戦後、睦子さんは大空襲の日に助けてくれた吉峯幸一さん(99)と結婚し、万世(ばんせい)町(現・南さつま市)で暮らした。町内には戦時中、日本陸軍の万世飛行場があり、戦争末期には特攻機が飛び立った。飛行場への空襲での犠牲者を含め201人が戦死した。
幸一さんの父、喜八郎さん(90年死去)は戦時中、万世町長を務め、戦後は特攻隊員らの慰霊活動を続けた。睦子さんは義父の遺志を受け継ぎ、毎年4月に開かれる慰霊祭への参列を続けている。
子や孫に語り伝えん戦争のおろかなること真剣に説く
40歳を前に短歌を詠み始め、平和への思いや戦争の愚かさをうたってきた。歌集も出版した。4年前、小学3年生だったひ孫に空襲体験などを語り聞かせた。戦争が始まれば、家族がいることや遊ぶことは当たり前ではなくなる――。ひ孫は聞いて感じたことを短歌で詠んでくれた。平和の大切さを理解してくれて「うれしかった」。
<とこしえの平和を祈りし夢消えて戦火はげしく世界はゆれる>
ウクライナ、パレスチナ……。かつて睦子さんが体験した空襲や戦争が今も世界各地で続いている。睦子さんは「学校や病院、何の罪もない人たちをね。(ニュースを見ると)あの日がよみがえってくる」と心を痛める。「戦争には、いいことは何もない。それだけは伝えたい」【宝満志郎】
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