8月15日で終戦から79年です。

 第二次世界大戦末期の沖縄戦の新聞記事。60年が経ったいま、取材した記者の妻が一冊の本にまとめました。

 そこには平和への思いが込められていました。

夫が残した沖縄戦を取材した記事 戦場の凄惨な現実

 「これが清水幸一の残したスクラップです。これ全体がうめき声に満ちている」(清水 藤子さん)

 北海道空知地方の月形町に住む清水藤子さん(79)。「あゝ沖縄」と題された古いスクラップブックを見せてくれました。

 「凄惨な場面がいっぱい出てくるから、人に読ませるというのがつらい」(藤子さん)

 これは1964年、当時アメリカの統治下にあった沖縄県を取材した記事です。書いたのは18年前に亡くなった藤子さんの夫、幸一(享年86)さんです。

 「(1964年)4月1日から267回、12月28日まで連載する」(藤子さん)

 新聞社の記者として1人、沖縄を訪れました。その後、9か月にも及ぶ連載。なぜ遠く離れた沖縄を書き続けたのか。

 第二次世界大戦末期、1945年の「沖縄戦」。日本軍は連合国軍と戦い犠牲者は20万人を超えました。

 日本兵の犠牲は約9万4千人。このうち北海道出身は沖縄を除いて最も多く1万人以上を占めました。

 「(夫は)予備役の人たちが入ってきたら、戦場に出すため訓練をして、その訓練係」(藤子さん)

 戦時中、幸一さんは日本陸軍第七師団に所属。訓練係として沖縄戦線に多くの教え子を送り出しました。しかし、生きて帰ってきたのはわずか。

 「死んだ人たちの鎮魂の思いですよね。それだけが彼の心を支配していた」(藤子さん)

 生き残った兵士を訪ね、取材し、記事をまとめた「あゝ沖縄」。そこには眼をそむけたくなる悲惨な戦争の現実がありました。

 「水は地面にたまった雨水だが戦死体の死臭と火薬のにおいがつき油が浮いている。喉へ流し込むと口の中にザラザラとサンゴ礁の砂が残った」(「あゝ沖縄」より)

 「子どもを抱きかかえた女がいる。私は子どもを抱き上げようとして身をかがめた。プーンと死臭がつく、両の目は穴になっておりほおは白骨が出ていた」(「あゝ沖縄」より)

幸一さんの訪れた戦跡を巡る 命日に「あゝ沖縄」を出版

 記事の連載終了から60年。藤子さんは初めて沖縄県を訪れました。

 「(沖縄訪問の目的は?)北霊碑に本を出したという報告ですね。それから夫も歩いた戦跡を歩いてみたい」(藤子さん)

 2023年、幸一さんの命日に「あゝ沖縄」を出版。表紙のエゾノコリンゴは画家である藤子さんが描きました。なぜいま、出版に踏み切ったのでしょうか。

 「(あゝ沖縄は)もしかしたら戦場のリアルを書いた世界でただ一つのものかもしれない」(藤子さん)

 中東やウクライナで続く戦火、揺らぐ平和。

 藤子さんはいまこそ「あゝ沖縄」を通して、戦争の悲惨さを伝えるべきだと考えました。

 「世界で平和を願う人の共有財産になるものだという思いは、非常に大きくなってきました」(藤子さん)

 「沖縄戦終焉の地」糸満市にある平和祈念公園。ここの資料館に「あゝ沖縄」を寄贈しました。

 「(戦争)体験者もいなくなっている状態で、今後伝える手段が証言に頼るしかない。戦争は二度と起こしてはいけない」(沖縄県平和祈念資料館 前川 早由利 館長)

平和の礎で本に登場する人を悼む

 同じ公園内にある戦没者の氏名が刻まれた「平和の礎」。ここである人の名前を探すのがこの旅の目的の一つでした。

 「これ『あゝ沖縄』に出てくる人だからね」(藤子さんの同行者)

 「神原光司さん」(藤子さん)

 輸送部隊所属で沖縄で戦死した神原光司さん。「あゝ沖縄」には一緒に戦った仲間の証言から死の直前の姿が残されていました。
 
 「おとなしい人であったが、真栄里付近で戦死した。砲弾しきり。そのなかをくぐり。野戦倉庫へ決死の覚悟で走った」(「あゝ沖縄」より)

 「皆さんのことを本にしました。安らかにお眠りください」(藤子さん)

 北海道の戦没者が眠る北霊碑です。

 「遺族、亡くなった人、北海道の大地に眠る人たち、そういう人たちが私を歩かせてくれている感じがします」(藤子さん)

本に登場する兵士の親族と交流 いまだに戻らない遺骨

 沖縄から戻った藤子さんが旅の報告で訪れたのは北海道旭川市です。

 森実サツミさん、99歳。輸送部隊に所属し沖縄で戦死した神原光司さんの妹です。

 「あゝ沖縄」に描かれた兵士の親族で、こうしていまも交流ができるのはごくわずかです。

 「この本を届けに来ました」(藤子さん)

 「おかあさんのお兄さんの光司おじさんのことが載っている本なんですって」(森実さんの親族)

 沖縄で戦死した兄。同僚から聴いた最後の姿は。

 「上から飛行機に見つけられて攻撃されて、そこで亡くなったんですよ。近くに穴を掘って埋めたというのですよ。どこに埋めたか分からない」(森実 サツミさん)

 この森実さんはいまも兄の帰りを待っています。いまだ戻らない遺骨。自分の髪を保存してDNA鑑定の準備をして、その日を待ち続けます。

 「あゝ沖縄」の出版、そして沖縄訪問。藤子さんの話を聞くために札幌市で30人以上が集まりました。

 北海道と沖縄県をつなぐ橋となった夫、幸一さんが書いた「あゝ沖縄」。平和への祈りをこめ戦争の悲惨な記憶を未来に紡ぎます。

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