授業で原爆で亡くなった子の実話を基にした絵本を紹介する渓口正裕さん=北海道千歳市で2024年7月25日、今井美津子撮影

 8月15日に終戦の日を迎える。悲惨な戦争が終わった背景にあるのが原爆の投下だ。1945年8月6日に広島市、同9日に長崎市でたくさんの人が犠牲になった。79年がたったいま、惨禍を語り、核なき世界への願いを次代につなごうと、当事者やその子が被爆地から遠く離れた北海道で記憶を紡ぎ、語り継いでいる。

朝寝坊で命拾いした母

 「今からするお話は、79年前に本当にあったことです」。7月25日、翌日から夏休みが始まる北海道千歳市立支笏湖小学校で、教諭の渓口(たにぐち)正裕さん(55)が受け持つ3年生の3人に話し始めた。被爆2世の渓口さんが毎年、担任を務めるクラスで必ず行うという「原爆」の授業だ。

 広島に原爆が投下された1945年8月6日午前8時15分。当時、高等女学校の生徒だった渓口さんの母親、雅子さん(93)は朝寝坊し、爆心地から3キロ以上離れた自宅の縁側で弟たちと涼んでいるところだった。

渓口正裕さんの曽祖父(後列男性)は半焼けの状態で亡くなっているのが見つかった。祖母(右端)は弱っている姿を目撃されたのを最後に行方不明になった=渓口さん提供

 雅子さんの通う高等女学校はその日、朝から爆心地の近くで建物疎開の作業をした。原爆の投下で、現地に集まっていた教員と生徒約200人の全員が命を落とした。朝寝坊して自宅にいた雅子さんは命拾いした。しかし、爆心地の近くに出かけていた祖父(渓口さんの曽祖父)は亡くなった。母親(渓口さんの祖母)も行方不明になったという。

 渓口さんは雅子さんの体験を紹介しながら語りかけた。「先生のお母さんが寝坊していなかったら、先生は生まれていなかったし、君たちとの出会いもなかった。79年も前だけれど、『8月6日』と君たちはつながっている」。子どもたちは静かに聞いていた。

教師1年目から続ける原爆の授業

 渓口さんは広島県出身。道教育大卒業後に道内で小学校教諭となり、1年目から原爆について語ってきた。大切にしているのは、当時の人々の「暮らし」を通して、原爆の恐ろしさを伝えることだという。

 この日の授業は、原爆で家族全員が亡くなった一家が残した実際の写真を紹介。写っているのはカメラ好きだったお父さん、無邪気な様子で遊ぶ子どもたち。いまの自分たちと同じように幸せに暮らしていた家族の姿を見ることで、子どもたちに原爆を「自分ごと」として考えてもらいたいという。

 当初は雅子さんの手記を朗読したこともあった。しかし、「被爆者でない人間が読んでも、聞いている人になかなか伝わらないと感じた」。

大事なのは「暮らし」を語ること

 転機は6年ほど前、2011年の東日本大震災の津波で児童74人、教職員10人が犠牲になった宮城県石巻市の大川小を訪れたことだった。当時は海に近い石狩市立浜益小に勤務し、津波からの避難など防災を担当。「津波が来たら、子どもたちを守れないかもしれない。どうすればよいのか」。悩んでいたときに大川小で被害を目の当たりにした。「人ごとにしてはいけない」と強く感じたという。津波も原爆も自分ごととして考えてほしいと思った。そして、たどり着いた結論が「暮らし」を語ることだった。

 授業で原爆の犠牲になった人たちが、いまを生きる人たちと同じような日常生活を送っていたことを強調する。たとえば、広島名物のお好み焼きの作り方や由来も紹介。「少ない小麦粉を薄く伸ばして大きく見せていた。焼け野原で作ったキャベツをたくさん入れた。お好み焼きは、広島の人たちの諦めない気持ちが詰まっているんだよ」と話す。実際にお好み焼きを焼いて食べる機会を設け、原爆を考えるきっかけの一つにする。

 渓口さんが大切にする言葉がある。雅子さんは語り部として「戦争は絶対にだめ」と訴え続けてきた。その母親の思いを継ぎ、渓口さんは語り続ける決意だ。「それが、原爆から生かされた自分の使命だから」【今井美津子】

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