毎日新聞が戦時中に発行した青年向け雑誌「大日本青年」には、延べ1万5000人を超える読者からの投稿が掲載されました。

 彼らは戦争の時代をどう生き抜いたのか。あるいは命を落としたのか。

 その人生をたどり、受け止めるため、「大日本青年」の残像を記者たちが追いかけました。

 連載「大日本青年を追って」は全11本のシリーズです。 
 15日まで各回とも前編・後編を毎朝7時にアップします。 
 プロローグ 記者がたどった投稿者の運命 
 初回  断ち切った王家の系譜 前編・後編 
 第2回 戦死者の24のうた 前編・後編 
 第3回 もう一人の「木本武男」 前編・後編 
 第4回  バリカン少女 前編・後編 
 最終回 軍神の息子 前編・後編 

 船上から雑誌「大日本青年」に短歌や俳句を投稿し続けた木本武男さんがはるか南の海にいた頃、もう一人の木本武男さんは中国大陸を北へと進んでいた。

 記者は常連投稿者だった木本武男さんを探していた。手がかりは、雑誌に住所として書かれていた「呉市」や、歌に詠んだ出征先の「南溟(なんめい)(南の海)」といった断片的な情報しかない。

 国立国会図書館のサイトでデジタル資料を検索すると、広島高等工業学校電気工学科(現広島大工学部)卒業生として「木本武男」の名前が1942年の官報にあるのを見つけた。さらに、同じ人物が70年代に中国電力の工務部長や電力所長を歴任していたことも分かった。

 あの木本武男さんなのだろうか。

 住所を調べて手紙を出すと、2日後、武男さんの次男、裕昭さん(68)から電話がかかってきた。

木本武男さんの写真と戦争体験について回顧した手記=広島市安佐南区で2024年7月22日、滝川大貴撮影

 「父は南ではなく、北の満州に行ったので、別人だと思います」。武男さんは2年前に101歳で亡くなっていた。お礼を述べて電話を切ろうとすると、裕昭さんは言った。

 「春に父の本棚を整理していたら戦争中のことをまとめたノートが出てきたんです」。ノートは青と赤の2冊あるという。何が書かれているのだろうか。6月下旬、知りたくなって広島へ飛んだ。

戦争の話をしなかったおやじ

 「おやじは僕らにほとんど戦争の話をしなかったんですよ」。広島市安佐南区の自宅で裕昭さんは2冊のノートを差し出した。

木本武男さんの次男、裕昭さん=広島市中区で2024年7月22日、滝川大貴撮影

 そこには「私の戦争体験」と書かれていた。ボールペンで丁寧な文字がつづられ、それぞれ150ページもの分量があった。多少の表現の違いはあるものの内容はほぼ同じだった。

 「1冊は下書きで、もう1冊が清書じゃないかと思うんです」と裕昭さんは言う。

 「はじめに」に書かれた日付は91年1月22日。米国などの多国籍軍がイラクを攻撃する湾岸戦争が始まった5日後だ。

 <此(こ)の度の戦争が一日も早く終り、世界の平和が来ることを祈ってペンを執った次第である>

 話は終戦の前年、23歳の夏から始まる。

木本武男さんが戦争体験について回顧した手記=広島市安佐南区で2024年7月22日、滝川大貴撮影

 武男さんは広島県川内村(現広島市安佐南区)出身で、4人きょうだいの長男だった。

 44年7月、いつものように日本発送電(中国電力の前身)の職場に自転車で出勤しようとしたところ、知り合いの役場の職員に呼び止められた。

 赤紙(召集令状)が届いたという。

シベリア抑留後、28歳で帰国

 翌8月、旧満州(現中国東北部)へ出征。大きな戦闘には巻き込まれずに翌年、終戦を迎えた。

 しかし、直後にソ連軍の捕虜となりシベリアへ連行された。それは長い抑留生活の始まりだった。

 冬には氷点下40度にもなる酷寒の中、原始林からモミや杉の大木を切り出し、製材所へと運搬する。来る日も来る日も強制労働は続いた。

木本武男さんの写真=裕昭さん提供

 食事は一切れの黒パンと雑炊だけ。飢えで何人もの仲間を失った。6カ所の収容所を転々とし、重い栄養失調にもなった。

 ようやく帰還することができたのは終戦から4年後。28歳になっていた。

 引き揚げ船でたどり着いた京都・舞鶴の復員事務所から駅に向かうトラックの荷台に飛び乗った時の心境をこう記している。

 <5年振りに会える懐かしい父や妹の顔を思い浮べながら、私はこれでいよいよ自由の身になれるのだと大きく息を吸い込んだ>

 だが、武男さんにとっての戦争体験はこれで終わりではなかった。

「あとがき」の最後の3ページ

 「あとがき」として最後に3ページあった。

木本武男さんが戦争体験について回顧した手記=広島市安佐南区で2024年7月22日、滝川大貴撮影

 トラックで舞鶴の駅に着いたが、迎えに来ていると期待していた父と妹の姿はなかった。

 待合室にいたのは叔父と義弟だけだった。泣いているような笑っているようななんとも言えない表情を浮かべていた。

 広島へ向かう汽車の中で5年ぶりの再会を喜ぶ武男さんに、2人はあいさつもそっちのけで、ぼそぼそとあの日のことを語り始めた。

 4年前の8月6日の出来事だった。川内村から離れた原爆投下の直下にいた51歳の父稔さんと19歳の妹ミエコさんは爆死した。2人は時折声を詰まらせながら代わる代わる説明した。

木本家の家系図

 出征の日、家に忘れた懐中時計を汽車の時間に間に合わせようと汗だくになって駅まで届けてくれた妹の笑顔。部隊がある下関まで見送ってくれた父が別れ際に見せた寂しそうな顔――。手記には、そんな父と妹との最後の別れの場面も書いていた。

 <突然に父と妹の悲報を聞き、あまりにもの悲しみに私の頭の中は混乱して、他の一般乗客の事も忘れて、こみあげて来る涙で、なかなか平静を取り戻すことが出来なかった>

 武男さんの出征中には、16歳だった弟の武志さんも軍属として赴いたフィリピンで戦死していた。生きて終戦を迎えられたのは、武男さんともう一人の妹ハツコさん(80年に57歳で死去)だけだった。

 武男さんは終戦から4年後のこの日、49年7月23日を振り返り、こう記した。

木本武男さん=裕昭さん提供

 <私にとって最も深い「戦争による傷跡」であった>

 しかし、なぜ父と妹は暮らしていた川内村から約10キロ離れた場所で突然命を奪われることになったのか。

 1カ月後、記者は「ピカの村」と呼ばれた川内村があった地を訪ねた。【堀智行】

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