砲爆撃のすさまじさから「鉄の暴風」と呼ばれた、太平洋戦争末期の沖縄戦を体験した千葉県木更津市の元医師、藤井昭夫さん(91)が木更津市で講演した。藤井さんは「背中に沖縄戦を背負って生きてきた。この体験を、後世に伝える使命がある」と語る。
講演会は、平和の尊さを次の世代に引き継ごうと木更津市民が実行委員会を組織して、同市の中央公民館(同市富士見1)で開かれた「平和のための戦争展」のイベントの一つで7月28日にあった。
藤井さんは、東京生まれの父と沖縄・浦添村(現沖縄県浦添市)出身の母との間に1933年、那覇市で生まれた。父を7歳で亡くした。
敗色濃くなった44年10月10日、沖縄は空襲に遭い、藤井さんが住んでいた家は焼け出され、母親の実家がある浦添村前田に避難した。翌45年4月に米軍が沖縄本島に上陸。沖縄で最も激しかった戦闘の一つ「前田の戦い」の際、戦火は同村にも迫り、祖父が掘った横穴壕(ごう)に避難した。陸・海・空から砲弾や銃弾が降り注いだ。
そして、米軍が壕に迫った。投げ込まれた爆薬が爆発し、壕の入り口に銃口が見えた。藤井さんらは日本軍が激く反撃している隙(すき)を突いて逃げた。
村は至るところが穴だらけで、死臭と硝煙に覆われていた。路上の遺体を横目に、南の首里方面へ急いだ。野戦病院の傷病兵らも撤退していたが、両足を失った兵士は腕だけで逃げていた。祖父は砲弾で腕を負傷し、その後破傷風で息を引き取った。
母親と2人になり、糸満の海岸まで逃げた。海では遺体をかき分けて進んだ。入れてもらえる壕はなく、砲弾のくぼみに身を潜めた。
民間人の遺体から衣服をはぎ取り、着て逃げていた敗残兵の姿も見た。手投げ弾を爆発させ、自決する負傷兵もいた。藤井さんは「(一般的に言われているような)『天皇陛下万歳』や、母親の名前を呼びながら死んでいった人はいなかった。うめき声だけだった」と振り返る。
沖縄本島最南端の喜屋武(きゃん)岬まで逃げたが米軍に捕まった。この間、腐ったサトウキビぐらいしか食べるものがなかった。収容先でもらったおにぎりを食べた途端に下痢になった。
敗戦後も平穏な生活は戻らなかった。敗戦から2年後、母を亡くし、親戚を頼って勉学に打ち込んだ。医大を卒業後、各地の病院で勤務して、木更津市で79年、クリニックを開業。沖縄戦を語り始めたのは、生活がようやく落ち着いた50歳を過ぎてからだった。
最近も気がかりなことは多い。米軍関係者による性犯罪が続いている。また、中国を念頭に、南西諸島への自衛隊の配備が進む。44年、本土から続々と日本軍が上陸し、那覇市を兵隊や戦車が行進した。しかし、翌年の沖縄戦につながるとは思いもよらなかったという。
「戦争は絶対やっちゃだめだ」。この思いを多くの人に伝えたいと藤井さんは力を込める。【浅見茂晴】
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