終戦から79年の夏を迎えた。当時の記憶や記録をたどり、今、そして未来へつなげる物語を四国から紡ぎたい。【佐々木雅彦】
歳月とともに茶色く色あせた一枚の紙を、今も自宅に保管している。「内地引揚証明書」。終戦翌月の1945年9月3日、朝鮮憲兵隊司令部によって発行されたものだ。すり切れたこの紙にまつわる体験が、劇団マグダレーナ(高松市)の脚本・演出家、大西恵(けい)さん(85)=本名・大塚和明=の創作の原点にある。
39年、日本統治下の朝鮮半島で生まれた。父は旧日本軍の憲兵。両親と弟妹の5人でソウルの憲兵官舎に暮らしていた。45年の終戦時は6歳。9月初め、父の古里、愛媛県宇和島市へ向けて引き揚げを始めた。父は別行動を取った。迷子にならないように弟の手を握りしめ母の後を必死で追い、鉄道の貨車で釜山港に移動。石炭運搬用の船に約30人とともに乗り込み、翌朝、山口県の下関港沖までたどり着いた。
しかし、接岸できるのは小型ボートだけだった。ロープを伝って乗り移る必要があったが、足がすくんだ。海に落ちた人がいても誰も助けない。みんな自分のことで必死だった。妹を背負った身重の母は「とても私には無理」と観念した。その時、船員が板を探し出し渡してくれたおかげで、ボートに移れた。後年、母はことあるごとに「船員さんがいなかったら帰れなかったね」と言っていた。
父は46年春に宇和島に帰ってきた。穏やかだった性格は一変し、少しでも気に障ることがあると大西さんや弟に暴力を振るった。終戦後の混乱期、雑貨商や行商をして家族を養い、バラック建ての家を購入した。「父は隠れるように生活し、家ではいつもピリピリしていた。戦犯になるのを恐れていたのだろう」。家は8畳1間で壁は板1枚。節穴からは寒風が吹き込んできた。家族で芋を分け合って食べた。
そんな生活は、50年の朝鮮戦争勃発を受けた警察予備隊創設によって大きく変わる。警察予備隊は保安隊を経て自衛隊に発展していく。父は警察予備隊に入隊し、やがて家族全員で松山市の自衛隊の官舎に移った。日本の独立回復につながる51年のサンフランシスコ講和条約の調印以降、「暴力的な振る舞いはなくなった」と振り返る。
父は99年、86歳で亡くなった。実家を引き払って持って帰った荷物の中に内地引揚証明書が入っていた。家族全員の名前が表記されていた。年齢は数え年だ。「途中乗(降)車(船)ニ際シ便宜」との記載から、引き揚げ途中に鉄道や船に乗る通行手形のようなものだったのではないかと推測している。
荷物の中に、父の手記もあった。古びたノートには、引き揚げの途中で同僚と朝鮮半島を逃げ回り、切腹した仲間がいたことなどが記されていた。帰国後、思い出したことを書き留めていたようだ。
憲兵として何をしていたのか、生前ほとんど語らなかった父。だが、普段の姿から垣間見えることはあった。例えば、ソウルの官舎では軍刀に打ち粉をつけて手入れをしていた。帰国後、父にうそをついて言い逃れをしようとしたら「人を白状させる仕事をしていたから、お前のうそなぞすぐ分かる」と怒られたこともある。
権力側にいた父の存在、終戦直後の命がけの引き揚げ、身近にいた元兵隊らの本音……。「舞台を通して戦争の理不尽さを伝えたい」。その思いで、戦争犠牲者の声を約30年にわたって役者に語らせてきた。
そんな大西さんは中学時代、手塚治虫の漫画に魅了され、高校生になると「内気な自分を克服したい」と演劇部に入った。高校卒業後まもなくして上京し、漫画家を目指したものの挫折した。松山に戻り、配達や営業の仕事をしながら結婚もしたが、低収入で生活は苦しく離婚。心機一転の思いで高松市に引っ越した。23歳の時だった。
劇団マグダレーナ
香川県を中心に活動するアマチュア劇団。1984年に旗揚げし、社会派やエンターテインメントの演劇を公演している。2009年には「子どものための演劇教室」を始め、21年からは「菊池寛シアター」と銘打って高松市出身の文豪、菊池寛の戯曲の公演に力を入れている。劇団員は現在12人。
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