窓がほとんどなく建物全体がチタン材で覆われているのは、所蔵する貴重な資料を外部から守るためだ。昭和10年代から30年代までの暮らしを伝える国立の施設「昭和館」は東京都千代田区の日本武道館にほど近い堀端にある。
7階の常設展示フロアでは、戦争とともにあった人々の生活の営みを紹介している。
出征する夫や兄弟、息子の無事を祈る千人針、戦地から届いた軍事郵便。かまどや氷冷蔵庫などの生活用品も並ぶ。
4月下旬の平日の午後。来館者はまばらだった。
照明を落としたフロアに、吸い込まれるように見入ってしまうパネルがあった。
紺色の長袖長ズボンにニット帽をかぶり、白い歯を見せながらスケートを楽しむ青年。その絵に「大日本青年」と黄色の字で雑誌のタイトルが書かれていた。
パネルの説明文には、毎日新聞社の前身の大阪毎日新聞社と東京日日新聞社が1938(昭和13)年に発刊した「青年向け雑誌」とある。
毎日新聞社にいながら、存在すら知らなかった雑誌。そのタイトルからして戦意高揚を目的にした内容だろうという推測はつく。
でも、楽しそうにスケートをする青年の姿とタイトルのギャップがどうしても拭えない。
大日本青年には何が書かれているのだろうか。
連載「大日本青年を追って」は全11回のシリーズです。
15日まで各回とも前編・後編を毎朝7時にアップします。
初回 断ち切った王家の系譜 前編・後編
第2回 戦死者の24のうた 前編・後編
第3回 もう一人の「木本武男」 前編・後編
第4回 バリカン少女 前編・後編
最終回 軍神の息子 前編・後編
落下傘部隊から豊臣秀吉まで
72年発行の「毎日新聞百年史」に説明があった。大日本青年は「青年層の精神訓練を目的にした雑誌」で、38年4月から44年3月まで発行された。
当初は月2回、43年5月からは用紙の減配によって月1回となり、6年の間に発行されたのは132冊になる。
このうち、毎日新聞東京本社に残されていた約2年分を取材班の記者たちで閲覧することにした。
閉架書庫に眠っていた80年以上前に発行された雑誌。だが、表紙の鮮やかさは、うせてはいなかった。
落下傘部隊や砲弾を浴びせる戦場の場面から、豊臣秀吉や西郷隆盛などの歴史上の人物まで、表紙の絵柄はさまざまだった。
ざらっとした手触りのページをめくると、細かい文字がびっしりと並んでいた。その一字一句を、しっかりと読むことができる。
特集は「少年飛行兵になるには」
予想はしていたものの若者たちを戦争へと駆り立てる内容が主だった。記者たちは「こんなひどいのまである」「これ、やばいな」とつぶやきながら、細かい文字を追っていく。
ある学者は「戦争こそよき機会」との見出しで、「戦争はまことに民族のよき試練である。進んでこの試練に克(か)つ工夫をしなければならない」と寄稿していた。
「次郎物語」で知られる作家、下村湖人の連載は「現思想戦下、不適当と思はれる箇所がある」との理由から打ち切りになっていた。
志願の手引きを紹介する「海軍少年飛行兵になるには」といった特集記事まで載せている。
終戦まもないころ、毎日新聞の編集幹部から「戦争を謳歌(おうか)し、扇動した大新聞の責任、これは最大の形式で国民に謝罪しなければならない」として廃刊を迫る進言書が出された。このような雑誌まで出していたのかと思えばうなずける。
そんな中にあって、ひきつけられたのは読者投稿のコーナーだった。読者欄の「青年の声」をはじめ、「徴兵検査」や「十二月八日」といった題が毎号出される「青年俳壇」「青年歌壇」、戦地から届いた手紙を紹介する「戦場だより」、戦場にいる家族や友人らに宛てた「前線への慰問文」――。
「銃後青年と繋がり保ってくれる」
昭和館などの所蔵雑誌もコピーして全132冊の延べ1万5000人を超える投稿をつぶさに見ていった。そうすると、必ずしも戦意高揚一辺倒ではない青年たちの心に触れることができた。
日本各地にとどまらず、慰問品として雑誌が送られた出征先の中国や軍艦からの投稿もある。俳壇と歌壇では常連も何人か見つけられた。
「至って頼りない兵隊さんだよ。つらいときは何しに生きてゐるのだらうかと思はれる」。中国戦線にいる友人がそう本音を漏らす手紙を紹介する島根の青年がいた。
「この静かな療養生活が私たちには何より辛(つら)いのです」。長野の療養所から投稿した傷痍(しょうい)兵は自らのふがいなさを嘆いた。
大阪の女性は出征する兄との別れを「征(ゆ)く兄と蜩(ひぐらし)の下の墓掃除」と詠んだ。
その投稿の2年後に撃沈される軍艦「衣笠」から「この雑誌こそ血気盛んな銃後青年とわれわれの繋(つな)がりを保ってくれる最適のものと信じます」と寄せた青年もいた。
民族差別にあらがうこんな呼びかけをした東京の青年もいる。「支那人といふ言葉を改めなければいけないと思ふのです。侮蔑嫌悪の気持がふくまれてゐるように考へられるからです。中国人と呼ぼうではありませんか。さうすればお互いの心中の感情を融合して和やかな気分となり、固い握手の出来る一助ともなりませう」
「戦争に必要な本誌」は戦争のため休刊
もちろん血気盛んな投稿もある。
「『笑って死ぬ』精神を体得し、特別攻撃隊勇士の後継者にならうではないか」
「たつた一つ願うことは戦場に立つて男の死場所を選びたい」
「国家のために死ぬ覚悟がなくてはならぬ」
青年たちを戦争へと駆り立てた毎日新聞の責任の大きさを突き付けられているようだった。
44年3月の最終号にはこんな告知が載った。
「われらはここに当分本誌の休刊を宣言せざるを得ない事情に立ち至つた。戦争のためである。戦争のために最も必要とする本誌を休刊することも戦争のためなればこそである。希(ねが)はくは捲土(けんど)重来の期を待たれよ」
その年の6月、米軍爆撃機B29による日本本土への空襲が始まる。戦争は泥沼の様相を呈し、もたらされた結末は、民間人を含む日本人約310万人の死、アジア諸国の2000万人超の死、そして焦土と化した日本だった。
投稿を寄せたあの青年たちはどんな運命をたどったのだろう。戦禍を生き抜いたのか。あるいは、命を落としたのか。
二度と復刊することのなかった大日本青年の「休刊」とともに、その声を聞きたくても、もう聞くことはかなわなくなった。
送った手紙134通、「80年」の壁
青年たちは生きていたら90代後半から100歳を超えるくらいになっている。
生きている人がどれほどいるのかわからない。亡くなる前に、子や孫に自らの体験を伝えているかもわからない。
それでも、彼らの生き様をたどり、その人生を受け止めることが必要なのではないか。投稿を繰り返し読むうちにそんな思いが強くなっていく。
幸い多くの投稿者の住所は投稿コーナーに載っていた。自治体に照会するなどして当時の住所から現在の住所を割り出し、昔の電話帳などを当たった。投稿者と同姓同名の人や同姓で家族とみられる人に宛てて、まずは手紙を出すことにした。
取材班の5人が送った手紙は最終的に134通になった。人違いだと電話があったり、宛先不明で戻ってきたりしたものが大半だった。
「80年」という大きな壁に記者たちが直面する中、投稿者と同姓同名の人の住所がある横浜の鶴見に試しに行った記者から連絡があった。
「今はアパートになっています。でも近くに投稿者と同姓の表札がある家を見つけました」
「僕は台風と黒砂糖の産地で有名な沖縄の一青年です」との一文で始まる投稿を寄せた青年だ。投稿には、大日本青年が本棚に並び、さみしい時や不服な時に読むと「心中大へん朗かになります」とあった。
記者が呼び鈴を鳴らすと、白髪の男性が出てきた。来訪の理由を伝える記者に、男性は言った。
「父は生前、沖縄にいた時のことを一切話しませんでした。私が幼い頃、沖縄で何があったのか尋ねると、何も言わずに席を立ったことがありました。鶴見に移ってから父が沖縄に行くこともなかった。だから、あなたにお話しできることはないんですよ」
80年前、青年の身に何が降りかかったのか。その残像を追いかける取材が始まった。【平和取材班】
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