平和祈念式典で「平和への誓い」を読み上げる三瀬清一朗さん=長崎市の平和公園で2024年8月9日午前11時14分、猪飼健史撮影

 「自分の学校が死体処理場に変わった光景は、今でも忘れることができません」。長崎原爆の日の9日、長崎市の平和祈念式典で、被爆者代表の三瀬(みせ)清一朗さん(89)=長崎市=は10歳の時に見た数々の悲惨な光景をつづった「平和への誓い」を読み上げた。

 「ブーン、ブーン」。79年前のあの日、三瀬さんは爆心地の南東約3・6キロの自宅で、米爆撃機B29の飛行音をまねて、オルガンの最も低い音を出して遊んでいた。祖母に「やめなさい」としかられ、ふたを閉めて立ち上がろうとした瞬間、閃光(せんこう)が走り、反射的に耳と目を押さえて伏せた。ドーンと音がして爆風が家の中を吹き抜け、「もう死ぬのかな」と思った。家の中はガラスが割れるなど、めちゃくちゃになったが、三瀬さんらきょうだい6人と祖母、母はみな無事だった。

 外に出ると目の前にきのこ雲が立ちのぼり、膨れ上がってきた。裸の上半身の腕や肩に黒い雨粒が落ちた。爆心地から約200メートルに住んでいた伯母2人といとこ5人は全員爆死した。

 数日後、通っていた伊良林(いらばやし)国民学校(現・市立伊良林小学校)の様子を見に行った。「学校もガラスが割れて瓦が飛ばされているやろ」と友人と話しながら裏門に着いた。「全く想像と違っていた」

 衣服が血で染まり、男女の区別もつかない人が次々と運ばれ、体育館に寝かされていた。重傷者たちは水を求め、悲鳴やうめき声を上げていたが、薬もなく手の施しようがないようだった。傷が化膿(かのう)した臭いが充満し、「殺してくれ」と叫んでいた人が急に静かになったと思ったら息絶えていた。亡くなった人は頭と足を抱えられて校庭に運ばれ、掘った穴に置かれた板の上で焼かれた。「名前も住所も分からない人が片っ端から片付けられていった。それが戦争だった」

親族の写真を見ながら、被爆当時を振り返る三瀬清一朗さん=長崎市江戸町で2024年7月8日午前11時9分、松本美緒撮影

 日本は敗戦。2学期が始まる前、穴だらけになった校庭を整地した。あちこちに落ちていた小さな骨を拾い、先生が準備した箱に入れた。長崎原爆戦災誌によると、伊良林国民学校では治療患者が1290人、死亡者266人との記録がある。

 三瀬さんは大学卒業後、家業の衣料品店を継ぎ、1964年に結婚。長男が生まれた際には、自身が被爆直後に黒い雨を浴びたことを思い、「子供は健康だろうか。何か異常があったら私が一生責任を持たなければ」と心配した。医師に「丈夫な男の子」と言われてほっとした。

 2014年にNGO「ピースボート」の船旅で世界を巡った。出会った南米ベネズエラの子供たちが広島、長崎への原爆投下を知らず、衝撃を受けた。翌年に長崎平和推進協会継承部会に入り、修学旅行生らに体験を語り始めた。英語での証言も始め、23年には78回の講話を重ねた。

 ロシアのウクライナ侵攻や、パレスチナ自治区ガザ地区へのイスラエル軍の攻撃で多くの子供たちが傷ついている。三瀬さんは、ガザの少年が「学校に行きたい。友達と遊びたい。夜ゆっくり眠りたい」と語る姿をテレビで見て、戦時中の記憶を重ねた。空襲警報が鳴ると真夜中に起こされて防空壕(ごう)に避難し、自由に外で遊ぶこともできなかった。そんな経験を子供たちに強いてはならないと思う。

 世界では戦乱が絶えず、核兵器使用の危機に直面する。5回目の応募で選ばれた被爆者代表。三瀬さんは、式典に参列した岸田文雄首相に「被爆国日本こそが、核廃絶を世界中の最重要課題として、真摯(しんし)に向き合う」よう迫った。そして、英語で信念を述べて誓いを締めくくった。「peace is a world heritage shared by all humankind」(平和は人類共通の世界遺産である)【松本美緒】

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