シリーズ「語り継ぐ戦争の記憶」です。太平洋戦争が終ったのち、幼くして朝鮮半島から日本へ引き揚げて来た人が、母親から繰り返し聞いた言葉をもとに紙芝居を作り、戦争の悲惨さを繰り返し伝えています。

終戦の日を前に宮城野区の集会所で開かれた平和と戦争について語る「盛夏のつどい」。その中で、ある紙芝居が披露されました。

「隙間を作らずに前の人との背にぴったり身を寄せて足元を確かめながら徹夜で歩きました。ちょっとでも間を開けたら道路の片隅にずらりと並んでいる現地人の追いはぎに遭うからです」

宮城野区に住む出浦由美子さん81歳。反戦、そして平和への祈りを込めて自身の体験を紙芝居にして伝えています。出浦さんは3歳の時に終戦を迎えました。当時は一家で朝鮮半島に暮らしていましたが、終戦の翌年に日本に引き揚げます。

「昭和21年10月初め、ようやく待ちに待った通知が届き、いよいよ引き揚げの準備です。お母さんは『いずれ死ぬにしてもいくらかでも本国に近づきたい。まずは生きられるところまで生きよう』と心に誓ったのでした」

幼い出浦さんにはほとんど記憶がないそうですが、母親から聞いてきた過酷な体験を紙芝居の形式にまとめ、県内外で戦争を知らない世代にも平和の尊さを訴えてきました。

「由美子(出浦さん)がお水ちょうだいとせがんでも貴重なお水ゆえ脅しては我慢させていたのに、木の枝にかけた水筒が朝、目が覚めたら盗まれてしまっていたのです。本当に涙が出そう。そんなひどい思いをして。戦争は嫌ですよね。平和が望ましい。命が一番守られる社会であってほしいと思うし、将来子供が大きくなった時に子供自身の気持ちや周りの人の気持ちを大切にできるような大人になってほしい」

出浦さんの両親と5つ違いの兄が写った家族写真。両親は秋田県出身で1936年から朝鮮半島の北部「新義州」で暮らしていました。1942年(昭和17年)に生まれた出浦さん。しかし、一家4人の家族写真はありません。出浦さんが生まれてわずか11日後に父親が軍隊に招集され戦地に赴いたからです。

「昭和17年の時には戦況が厳しくなって、軍の動きを知られないように父親は真夜中、月夜の晩にコツコツ軍靴を鳴らしながら闇に消えていった。招集になった時は『もう生きて帰れないだろう』とよく言っていたと母親は言っていました」

母は生後間もない出浦さんと5歳の息子と共に、異郷の地で涙もみせず夫を見送ったといいます。それから約3年。終戦が告げられても、父のことは何一つ知ることはできませんでした。母は夫婦それぞれの実家がある秋田に行けば夫に会えるのではという一縷(いちる)の望みをかけ、2人の子どもを連れて引き揚げを決意します。しかしそれは、言葉にできないほど過酷な道のりだったそうです。朝鮮半島では略奪や暴力の危険にさらされ、ようやく乗り込んだ引き揚げ船では食べる物もない状態でたくさんの人が亡くなったといいます。そんな体験を出浦さんの母親は、日本人が朝鮮半島で行なってきたことの報いだと話したそうです。

「母が引き揚げて来る時、本当に怖い思いで略奪などに遭いながら帰ってくる時に『自分が行った時に現地人を遠くに追いやってそこの土地の物を奪いながら暮らしてきたから今、こういう目に遭っている』と感じたと。生きて帰れないにしても何歩かでも自分の国の近くに行って、一日一日が命をつないでいた状況だったと思う」

1946年10月22日。一家は、長崎県佐世保の浦頭港にたどり着くことができました。

「まずは命つなげたと。あとはどうやって帰れるかということだと思う」

その後、引き揚げ列車に乗り換え上野駅へ。母と父の実家のある秋田に着くまでにはそこからさらに二日かかりました。

「もしかしたら夫に会えるかなと。日本に帰らなかったら絶対に会えることないから。子供たち連れて帰ったよと夫に報告できるかもしれないという思いがあったと思う」

しかし、秋田に帰り着いたその日に一家は「父の戦死」を知ることになりました。

「昭和19年9月4日死亡。満31才。戦死地東部ニューギニア」

極寒の中、全身防寒着をまとって出征した父は、遥かかなた熱帯の赤道近くで死を迎えていました。出浦さんは2007年、生後10日で別れ記憶に残っていない父親を思い、全国の戦争遺児とともにその地に立ちました。

「初めて思い切り『お父さん』と叫びました。聞こえるようにという思いで。一緒に行った人たちが皆一緒に泣いてくれました。同時に父親の遺骨はまだそこにあると。悔しい思いをかみしめながら帰ってきた。できれば自分の父親ですから会いたかったし、一緒に暮らしたかった」

戦争で父を失い、戦争のない世の中を願う気持ちは人一倍強いと話す出浦さん。「平和の尊さ」は、決して当たり前ではないと強く訴えます。

「一人一人大切な命があって自分が好きなようにかけがえのない人生を全うする。花咲かせることができる。それが損なわれるのが戦争。だからどんなことがあっても戦争だけは絶対してはだめ。平和は黙っていて来るものではない。世の中は動きますから。努力しながら作り上げて守っていくものと思う」

平和は努力で守るもの。出浦さんは、これからも語り続けます。

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。