今回の訴訟でも、国の責任は認められなかった。水俣病被害者救済特別措置法(特措法)に基づく救済を受けられなかった新潟水俣病の未認定患者らが国と原因企業の旧昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)に損害賠償を求めた新潟水俣病5次訴訟。新潟地裁は18日、26人を水俣病と認め旧昭電に賠償を命じる一方、原告たちが長年問うてきた国に対する請求は棄却した。【神崎修一、木下訓明】
原告149人のうち先行して結審した47人に対する判決。今回の訴訟は、阿賀野川流域の住民らが2013年に集団提訴し、その後も原告が追加されていた。新潟地裁は原告26人について「水俣病に罹患(りかん)している高度の蓋然(がいぜん)性がある」と認め、各400万円(総額1億400万円)の賠償を同社に命じた。原告2人については、公害健康被害補償法に基づく水俣病患者と認められているとして水俣病だと判断せず、残り19人は水俣病と認定しなかった。
原告の半数以上が水俣病と認定されたものの、国の責任は認められなかった。新潟地裁の判決を受け、原告団と弁護団は新潟市内で記者会見し、原告団長の皆川栄一さん(80)=阿賀町=は「今日の判決を迎えるまで10年という長い年月がかかった。私たちは全員救済を最初から訴えてきたが、45人中19人は残念ながら認められなかった」と落胆を隠さなかった。
さらに「私たちは最初から国の責任を求めてきた。今まで何回も裁判で戦った。また今回も国に負けたのかと思うと本当に悔し涙が出る。今後のことは弁護団と相談する」とやるせない気持ちを訴えた。
原告団は高齢化が進む。遺族を除く41人の8割が70代以上だ。原告の加藤シズ子さん(83)=同=は「ずっとつらい思いをして裁判に出ることも悩んだ。自分がどう認定されたか今は分からないが、(提訴から)10年で区切りがつき、少しほっとしている。もう裁判所に通わなくてもいいのだという思いがある」と振り絞るような声で答えた。
弁護団にとっても納得できる判決ではなかった。弁護団の味岡申宰(しんさい)弁護士は会見で「新潟は国の責任は認められなかったが、国による患者切り捨ては断罪された。(大阪と熊本を含めた)三つの判決を国の政策を転換させる力にしたい」と述べた。
新潟水俣病を巡る動き
1936年 3月 昭和合成化学工業(後の昭和電工)が水銀などを媒介にしたアセトアルデヒドの生産を開始
65年 1月 昭電がアセトアルデヒドの生産を停止
5月 新潟水俣病の公式確認
67年 6月 被害者13人が昭電を提訴(新潟水俣病1次訴訟)
68年 9月 政府が水俣病を公害認定
70年 2月 新潟県と新潟市による患者認定審査が始まる
71年 9月 新潟水俣病1次訴訟で原告勝訴(確定)
73年 6月 患者団体が昭電との間で補償協定結ぶ
77年 7月 国が患者認定基準を厳格化。複数の症状の組み合わせを求める
78年 4月 新潟県が阿賀野川の大型魚の食用規制を全面解除
82年 6月 未認定患者ら94人が国・昭電を提訴(新潟水俣病2次訴訟)
92年 3月 新潟水俣病2次訴訟判決で国の責任は認められず、原告と昭電が控訴
95年 12月 未認定患者に一時金260万円を支払うなどの案を村山内閣が閣議決定
96年 2月 新潟水俣病2次訴訟が昭電との間で和解。国への訴えは取り下げ
2004年 10月 水俣病関西訴訟で最高裁が国と熊本県の責任を認定。国の認定基準を事実上否定
07年 4月 未認定患者ら12人が国・新潟県・昭電を提訴(新潟水俣病3次訴訟)
09年 6月 未認定患者ら27人が国・昭電を提訴(ノーモア・ミナマタ1次訴訟、新潟水俣病4次訴訟)
7月 水俣病被害者救済特別措置法(特措法)成立
11年 3月 新潟水俣病4次訴訟が国・昭電との間で和解
13年 4月 最高裁が感覚障害だけでも水俣病と認める判決
6月 熊本の未認定患者ら48人が国・熊本県・チッソを提訴(ノーモア・ミナマタ2次訴訟)
12月 新潟の未認定患者ら22人が国・昭電を提訴(ノーモア・ミナマタ2次訴訟、新潟水俣病5次訴訟)
15年 3月 新潟水俣病3次訴訟判決で、昭電に一部賠償を命じる一方、国と新潟県の責任は認めず。原告側と昭電が控訴
19年 3月 新潟水俣病3次訴訟で、最高裁が上告を棄却。国や新潟県、昭電の勝訴が確定
23年 1月 昭和電工が「レゾナック・ホールディングス」に社名変更
9月 「ノーモア・ミナマタ」2次訴訟の大阪地裁判決で、原告側が勝訴
12月 新潟水俣病5次訴訟が一部結審
24年 3月 「ノーモア・ミナマタ」2次訴訟の熊本地裁判決で、原告側の請求を棄却
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