東レで保存されていることが確認された模擬原爆の投下直後に作成された報告書=大津市園山1の東レ滋賀事業所で2024年7月17日午前10時46分、藤田文亮撮影

 太平洋戦争末期、大津市の旧・東洋レーヨン石山工場(現・東レ滋賀事業場)に落とされて学徒動員の女子生徒も含め16人の命を奪った原爆投下訓練用の模擬原爆「パンプキン」。被災状況を旧軍や警察などに報告した当時の文書が、東レに保存されていたことが分かった。被災直後に人的、物的な損害状況や、会社としての対応などを記しており、専門家は「伝承だけで記録の少ないパンプキン爆弾による被災実態を知るうえで貴重な資料だ」と話している。

 原爆や空襲を研究している立命館大衣笠総合研究機構の鈴木裕貴研究員が確認した。

東レ滋賀事業所で保存されている模擬爆弾の破片=大津市園山1で2024年7月17日午前9時35分、藤田文亮撮影

 パンプキンは、長崎に投下された原爆と同型(全長3・2メートル)同重量(5トン)で、通常火薬2・5トンを詰めており、原爆を除けば当時最大クラスの爆弾だった。1945年7月20日から8月14日まで全国に49発投下し、死者は計400人以上。当時、軍事転換を余儀なくされ、海軍の魚雷組み立てなどを担当していた東レには7月24日に投下されている。

 報告書は、下書きとみられる手書きからタイプ打ちまで数通。軍工場としての名称「松第二三〇一工場」で作成され、宛先は「近畿海軍監督長」「近畿軍需監理局」「大津警察署」などになっている。作成日は、被災当日から終戦後まで。

 報告書には「午前七時四十七分敵機一機(B-29)当工場南方ヨリ侵入」とある。死者は「海軍舞鶴工廠(しょう)派遣工員四名」「海軍生産協力隊二名」「当工場従業員十名(内女子一名)」の計16人。重傷者は「十三名(内女子三名)」。建物被害は「本館事務所三〇〇坪半壊」「兵器部品倉庫一〇〇坪全壊」「兵器工場五二五〇坪小破」などとある。

 県平和祈念館にある動員中学生の証言では「若い女の人が血だらけで髪を振り乱して半狂乱に」「見に行ったときは残っていました。肉の塊が…」などと混乱の様子が記録されている。しかし今回確認された軍への報告書には「工員ノ状況 殆(ほと)ンド動揺ヲ認メズ一般ニ士気旺盛ニシテ出勤状態良好ナリ」、宛先不明の報告書では「戦災者ノ仇(あだ)ニ酬ユル」「勝抜ク誓ヲ斉唱」などと勇ましい記述が目立ち、戦時中の社会状況をうかがわせる。

模擬原爆投下で破壊された工場の写真=大津市園山1の東レ滋賀事業所で2024年7月17日午前11時23分、藤田文亮撮影

 鈴木研究員は「これだけまとまって保存されていたことに驚いている。模擬原爆の威力や被害だけでなく、当時の軍需工場の実態がうかがえる、大変貴重な一次資料」と話している。【藤田文亮】

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 24日午後1時、シンポジウム「湖国の『7・24』を考える」(立命館大主催)が大津市浜大津1の旧大津公会堂で開かれる。模擬原爆で姉を亡くした遺族の証言や、県内の空襲被害の解説などがある。事前申し込み不要で参加無料。

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