終戦間近の1945(昭和20)年7月15日朝、米軍機の襲撃で北海道本別町民40人が犠牲になった「本別空襲」から79年が過ぎた。当時、本別町長だった荒深四郎(あらふか・しろう)氏(60年死去)の孫で空襲の「語り部」として活動する町内の林敏子さん(92)が胸に秘めた祖父の大切な言葉がある。出征する林さんの担任教諭に対し、町長として語りかけた「元気で帰って来い」のひと言だ。命の大切さを伝える語り部活動のよりどころになっている。【鈴木斉】
12歳だった私もびっくりした
44年5月。国民学校高等科1年だった林さんは出征する20代の担任教諭を見送るため、本別駅にいた。「お国のために命を賭けて」と出征する人に公然と「帰って来い」とは言い難い時代。役場職員や町民が集まる中、壇上に立った祖父は「一生懸命、働いて元気で帰ってきてください」とあいさつした。
林さんは最前列でその言葉を聞いた。「12歳の私でもびっくりしたんです。そんなこと言ったら町長でいられなくなる気がして。でも、『いいことを言ったな』と思いました」と語り、「戦死した息子がいたので『帰って来い』は本心だったんでしょうね」と推し量る。80年前の光景は今も鮮明だ。
翌45年7月15日の本別空襲は米軍機43機から爆弾や機銃で攻撃を受け、中心部の3分の2が焼失する甚大な被害が出た。林さんは高台にある自宅の畑で草取りを手伝っていた。何か騒がしいと感じ、十数キロ離れた市街地に目を向けると「トンボのようなモノがいっぱい飛んでいて、ドーンという爆音が鳴り響いた」。トンボは米軍の戦闘機で、うち1機が低空飛行で近づき、頭上を通過した。
「操縦席の人の顔がはっきり見えた。『動くな!』という家族の声で地面にへばりついた。もうダメだ、これは死ぬと思った」
市街地は激しく煙が上がり、役場裏の町長公宅にいる祖父母のことが心配だった。父親が馬に乗って市街地に駆けつけ、無事を確認したが、友人の兄弟ら知人が犠牲になった。
「生きる力を感じて」
戦後、地元の高校を卒業して農業実践を通じて学ぶ岩手県の盛岡生活学校に進み、帰郷して町生活改善普及員として働いた。夫と北海道本別生活学校を創設。大豆の研究などに力を入れ、大豆料理のレシピ本など著書3冊を出版した。
語り部として空襲の惨劇を伝える際、戦時下の貧しい食事を小中学生に提供することもある。「食べる物がないときに、何を食べて生き抜いてきたかを知ってほしい。生きる力を感じてほしい」と願っているからだ。
林さんは最近、自宅の古い箱の中から、本別空襲当時の様子を自身が書き留めた紙片を見つけた。空襲前日の7月14日、祖母のナツさん(55年死去)の誕生日祝いに、砂糖の代わりに塩で味付けした「塩おはぎ」を食べたことなどが記されている。「食べる物がなかったので、食べられる野草を探し、みそを付けて食べました。生き延びるために」。紙片を手につぶやいた。
「戦争は絶対にあっては困る。だから体験を口に出し、行動するしかないと思っています」。まだまだ「生き抜く大切さ」を伝えたいと思っている。
「子どもの目から見た戦争」企画展
本別町歴史民俗資料館は毎年この時期、本別空襲の企画展を行っている。今年は「子どもの目から見た戦争」をテーマに、林さんら空襲体験者の記憶をまとめたパネルや新たに寄贈された戦車や戦闘機の図柄の長じゅばん、空襲の実相に迫る多彩な品々を展示する。
会場では、語り部やボランティアの町民がガイド役を務める。開催前に田野美妃館長がボランティアメンバーらを対象に、展示内容を解説する学習会もあった。田野館長は「体験者は戦渦を思い出すのもつらいが、忘れ去られるのもつらいと感じている。二度と繰り返さないために、未来を生きる若い世代に伝える機会にしたい」という。
企画展は8月末まで(月曜、祝日休館)。入場無料。
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