今夏で戦後79年を迎え戦争体験者が減っていく中、貴重な資料で戦争を語り継ぐ企画展「慶應義塾と戦争 モノから人へ」が慶応大三田キャンパス(東京都港区)で開かれている。明治期から敗戦後までの約90点を展示し、戦時下の学生生活や大学の苦労を伝えている。
中心になるのは、第二次世界大戦下のものだ。1937年に日中戦争が始まり、41年には米英などとの戦争に突入し、キャンパスにも戦争が近付いてきた。それでも宴会やスキー大会のアルバム、運動部員の日記などから、学生生活を楽しんでいたことが分かる。
転機となったのが43年10月。戦局が悪化する中、徴兵を猶予されていた大学生らも戦地に送られることとなった。「学徒出陣」だ。会場中央にある校旗は、10月21日に神宮外苑競技場で行われた雨の中の出陣学徒壮行会で掲げられた。いわば「歴史の目撃者」だ。
企画展を担当した都倉武之・慶応大学准教授によれば、大学は学徒出陣の直前まで講義を続けていた。本展ではその時期の学生の受講ノートが展示されている。戊辰戦争の最中の慶応4(1868)年5月15日。新政府軍が上野で彰義隊と衝突した日、慶応義塾の創立者・福沢諭吉は芝新銭座(現港区浜松町)で講義をしていた。大砲の音が響き塾生たちが浮足立つ中、経済学を講義していた逸話を思い起こさせる。
戦前、慶応と早稲田の大学野球は人気が高かったが、戦時下で実施することは難しかった。だが出征前に慶応側から早稲田に呼び掛け、43年10月16日、早稲田大の戸塚球場で実現。慶応が早稲田の校歌「都の西北」を、早稲田が慶応の応援歌「若き血」を歌って励まし合ったエピソードも紹介されている。
戦争は学生の生命を脅かしただけでなく、大学の存立にも重大な危機となった。慶応大日吉キャンパス(横浜市)には海軍連合艦隊の司令部が移ってきた。そこから航空機の搭乗員が爆弾もろとも敵艦に突っ込む航空特攻が発令された。校舎の一部は空襲を避けるため、コールタールで黒く塗られるなど、戦時色に染まった。
「学徒出陣」によって多くの学生が戦地に向かった。私立大は学費が経営の大きな柱だっただけに大きな打撃だった。だが、政府による直接的な支援はとぼしかった。また福沢を「欧米思想の紹介者」ととらえる向きがあったことから、慶応大とその出身者には「同様のレッテルが貼られる場合があった」という。どうやって大学を存続させるか。小泉信三塾長らの書簡などによって、その苦悩が伝わってくる。
「戦後」の資料も充実している。たとえば米軍に接収された日吉の様子を伝える写真。また「武道禁止令」によって活動を停止させられた弓道部が、GHQに英文で送った復活の嘆願書も。小泉塾長の「戦争責任」を追及する教授の書簡と、擁護する学生決議文など。敗戦後も残っていた戦争の影がみえてくる。
前期は20日まで、展示品を入れ替えた後期は24日~8月31日まで。無料。日祝日休館。
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