[八重山生活誌 宮城文が伝える味](6)吉江眞理子

 1944年、集団疎開第1号の名乗りを上げた宮城文の家族6人は9月9日、次々に増えた3町内の疎開希望者48人とポンポン船3隻に乗り、台湾に向けて出発した。

新川主婦会の女性たちと宮城文(2列目中央)=1930年頃(「八重山生活誌」から複写)

 当時、新川の町内会長だった夫・信範(しんぱん)が、疎開命令に応じる者がいないため、「模範を示すべく」決めたものだった。

 長女長男を亡くし、石垣小学校教員を辞して婦人会活動を担っていた文は、大日本婦人会八重山支部長としての重責を担う多忙な日々。夫に続き町長からも先発隊にと促され、決断する。夫と三女を残し4姉妹と三男を連れての、53歳での台湾疎開であった。

 台湾中部の員林(ユエンリン)に到着後、疎開児童を転入させるべく日本本土から赴任していた小学校校長に会う。その一問一答を「ちと腹立たしくさえなったので、次にあげてみることにする」と、箇条書きで『市民の戦時戦後体験記録』(石垣市市史編集室)に記している。

 「日本語が話せますか」

 「聞くこともできますし話すこともできます。(略)日本語などとは言いません(略)」

 標準語を話せない人を見下す校長の偏見がリアルに伝わってくる。方言を話す人をスパイとみなす短絡的差別意識が、沖縄戦で多くの悲劇を生んだ。

 実は、文は40年に沖縄県から「標準語励行委員を嘱託す」という辞令を受けている。

 標準語を話すことが、台湾疎開、引き揚げに際して身を救う一助にはなった。が、後年、文は郷土の文化を記録し、石垣方言辞典を息子と研究・編さんしている。異なる文化とぶつかって、自文化の記録の大切さを悟る。怒りと共に、重要な気づきがこの時芽生えたように思える。

 次女が教員に就き、教員宿舎に入れたのもつかの間、マラリアがまん延。「貧苦と病苦にもがき、死人が続出するまさに生き地獄の感がした」という悲惨な状況下、マラリアにかかった六女の末子は必死に看病するも「お母様死なさないでよ」と叫びながら、そのまま心臓まひで死去した。

 石垣島の夫と三女がマラリアで重体、義姉は死亡、東京にいる次男と音信不通になり、文は「不眠症にかかり、ノイローゼ気味になって(略)、家が揺れて自身は地の底に入っていくようで何かを固く握りしめないではおれない状態にまでなってしまった」。

 わたしは2005年に著書を出版した後、7年間うつ病になった。文の書く、地の底に沈むような感覚はわたしも経験している。そこから文が立ち直れたのは、母親としてしっかりしなくては、と自ら奮い立てたことが大きい。

 母は強し、であった。

 1945年8月15日、敗戦。それまで文一家が偏見なく付き合ってきた台湾人は、手のひらを返すように一変する。先生と呼んでいた者が「琉球ラー、いつ帰るのか」と言い、店でも良い品は売ってもらえない。「すべてが逆転し、日に日に物騒になる世の中に戦々恐々だった」(『私の戦後史』)

 「誰かが疎開者を救う道を訴えなければならない」と文は列車で移動し、闇船を雇い、隣家の子らや知人一家と決死の思いで石垣島に向かう。たどり着いたのは45年10月16日。403日ぶりの帰還であった。

 娘の遺骨を抱いて帰ると「しゃれこうべのような」夫と娘の姿に仰天。台湾から持ち帰った米で飯を炊き、みそ汁を作る。家族の命をつないだのは、米とみそであった。

 文の帰還を知って宮城家に集まってきた疎開者の家族に、文は財産を処分してでも迎えに行くべきだと訴えた。しかし、引き揚げが遅れ、餓死した人がいたことは事実である。

 「強引に疎開をさせておきながら、あとは知らん顔の政府の無責任さである。戦争に対する憎悪、痛憤、怨念で心胆うずきながら記している」(『私の戦後史』)

元石垣市立図書館長の内原節子さん=2023年5月、石垣市内(筆者撮影) 「いのちと暮らしを守るオバーたちの会」の山里節子さん=2023年5月、石垣市内(筆者撮影)

 協力を強いておきながら軍は住民を守らない。その教訓を知る現代の女性たちは、いわば当時の国策に組み込まれていった婦人会の活動をどのように見ているのだろうか。

 「いのちと暮らしを守るオバーたちの会」代表の山里節子さん、元石垣市立図書館長の内原節子さんと話して、印象的だったことばがある。

 「わたしたちは、二度とたすきをかけたりはしない」

孫嫁 宮城礼子さんの油みそ

 八重山料理の店「潭亭」の前菜には油みそをお出しします。20年ほど前、八重山独特の米みそを自分で作りたいと、石垣島の川平湾近くの「後田多(しいただ)製造所」に通い指導してもらいました。最後の訪問の日、後田多保(やす)さんは「実は私は婦人会で宮城文先生という方から習ったんですよ」と言うのです。びっくりして文との関係を話し、不思議なご縁に2人で手を取り合って喜び合いました(保さんは亡くなり、製造所は閉店しました)。

八重山の米みそを教えた後田多保さん(左)と宮城礼子さん=2003年、石垣市内

 【レシピ】

 ●材量 米みそ400グラム、豚肉の塊300グラム、いった落花生20粒ほど、すりおろしたショウガ少々、砂糖、しょうゆ、油各適宜

 ●作り方

 (1)豚肉の塊を20分ほどゆでる。

 (2)フライパンに多めの油をしき、5ミリに角切りにした豚肉と落花生を炒める。

 (3)しょうゆと砂糖を加え、さらに炒める。米みそを入れたら弱火にして炒める。火を止めてすりおろしたショウガを加えて混ぜる。

宮城礼子さんが「潭亭」で出している油みそ=4月、那覇市首里赤平町

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