国鉄の下山定則総裁が轢死体で発見され、状況を検証する堀崎捜査1課長ら=昭和24年7月15日

昭和24年7月6日午前0時過ぎ、田園風景が広がる東京都足立区の常磐線線路上で、轢死(れきし)体が発見された。死亡したのは国鉄総裁の下山定則(47)。鉄道マンは鉄道自殺しない―。そんな常識に反する死に世間は揺れた。

下山は5日朝の出勤途中に消息を絶ったが、その経緯はあまりにも不可解だった。午前8時20分ごろに大田区の自宅を出発したが、日本橋や丸の内の百貨店や銀行などを行き来した後、9時半ごろに日本橋の三越に到着。運転手に「5分ほど待っていてくれ」と言い残して忽然(こつぜん)と姿を消していた。

警視庁は殺人事件を担当する捜査1課や、当時労働運動を担当していた捜査2課を投入した。

労働運動が激化する中で連合国軍総司令部(GHQ)から職員の大量解雇を迫られたこと、遺体が外部から運ばれたとは考えづらいことなどから、捜査1課は自殺説に傾いた。一方で、捜査2課は他殺の線で捜査をするなど足並みは乱れる。

さらに、法医学者の古畑種基らが示した「遺体は死後に列車に轢断された」との所見が他殺説の傍証と受け止められ、自殺か他殺か警察内部から法医学界、新聞紙上も巻き込んで論争となった。

捜査は24年末に事実上終了し、殺人事件としての時効も39年7月に迎えた。捜査本部は公式見解を示すことはなかった。警視庁が編纂(へんさん)した『警視庁史』(53年)は、捜査当局として下山の死を自殺と認定したとの見地で書かれているが、「自殺・他殺論争」は今も続いている。(内田優作)

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