異能の芸人「マルセ太郎」(享年67)が世を去って23年が過ぎた。大阪出身の在日コリアン2世。動物の形態模写、映画のストーリーを再現した一人語り、そして自身のルーツに迫る喜劇「イカイノ物語」など幅広い芸で知られた。芸と笑いを通じ、人の心の奥底にメッセージを届ける職人のようだった。
誰もが知る芸人ではないが、放送作家・永六輔や小説家・色川武大らが高く評価した。強い眼力と全身を使った表現力、そして弱い者に向ける優しいまなざしが、多くの人を引きつけた。
根強いファンは今も健在で、仲間うちでは「マルセ中毒患者」と呼ぶ。その一人、兵庫県宝塚市の中島淳さん(84)は「今の社会をどう考えるのか、幸福とは何なのか。芸を通じていろいろなことに気づかせてくれるのがマルセの魅力」と話す。マルセの死去後、毎年命日近くに神戸で追悼イベントを開いてきた。
そんなファンによる追悼の言葉を集めた「マルセを生きる!」(クリエイツかもがわ)が2023年12月、出版された。編集したのは、大阪府内在住のマルセの長女で「ストーリーテラー」として活動する梨花(りか)さんだ。追悼本を手に、各地でマルセの生きざまを伝えている。
マルセは1933年に大阪で生まれた。本名は金均浲(キムキュンボン)。大阪府立高津高校を卒業し、新劇俳優を目指して上京した。願いかなわず芸人の道に転ずるも、長く光は当たらなかった。しかし、猿の形態模写や映画の一人語りなど芸の幅を広げ、注目されるようになった。晩年は東京の小劇場で演じ、地方巡りも続けた。
マルセの父は、現在の韓国・済州島から1924年に貨客船「君が代丸」で大阪にやって来た。2世のマルセは東京に移って家族を築き、やがて日本国籍を取得する。ただ、以降も差別を恐れ、60歳近くまで自身のルーツを公にしなかった。3世の梨花さんも長く東京で暮らすが、京都や九州の離島を経て近年、大阪に拠点を移した。
マルセの父の来日から1世紀。時間軸を戻すような奇跡が起きた。
マルセの父母は済州島出身だが、父母が亡くなると島の親族との関係は次第に薄れ、特に母方はほぼ途切れていた。そんな中、梨花さんの長女(19)が大阪の高校を卒業し、2023年3月に留学先に選んだのが済州島の済州大学だった。
大学に通い出した長女は、現地で知り合った研究者らの協力を受け、マルセの母方の親類を捜し当てた。1948年に済州島で起きた「4・3事件」で犠牲になったマルセの母方の叔父の名前がわかり、梨花さんの長女は慰霊碑の前で手を合わせた。そしてこの叔父の娘が高齢で生きていることも判明し、対面が実現したのだ。4・3事件では、朝鮮半島分断に反対して島民が蜂起したのをきっかけに2万人以上が軍に虐殺されたとされる。悲劇が絡んだ家族のルーツを若い在日4世がたぐり寄せた。
済州島から来た在日コリアンが多く住む大阪・鶴橋の町は今、多くの若者や外国人観光客でにぎわう。露骨な差別は減り、多文化共生は着実に進んでいるようにも見える。
しかし、梨花さんは「強い危機感」がぬぐえないと言う。近年、在日コリアンへの差別が以前とは違う形で表出しているからだ。2021年8月、在日コリアンが集住する京都府宇治市ウトロ地区で放火事件が発生。翌22年4月には大阪府茨木市の「コリア国際学園」の敷地内で段ボールが燃やされる事件が起きた。罪に問われたのはどちらも20代の男性。法廷では、在日コリアンへの憎悪を動機として語り、心からの反省はなかった。2人ともインターネット上の在日コリアンに関するデマを妄信し、犯行に及んだという。
梨花さんの長女は、事件の舞台となったコリア国際学園に通う生徒の一人だった。「在日4世の代になってもこうした事件が起きるとは。歴史を知らない若者が一方的に憎しみを強め、ヘイトクライム(憎悪犯罪)に手を染めたことが何よりも怖い」。梨花さんは憤る。
マルセが残した有名な語録の一つが「記憶は弱者にあり」だ。虐げる側は自身の行為を覚えていないが、虐げられる側は正しく記憶しているとの意味だ。近年のヘイトクライムの被害者の痛みに寄り添う言葉でもある。
済州島と大阪を行き来した在日1世から4世が痛みを抱えながらつながる。「マルセが今も生きていたら、どんなことを語るだろうか」。梨花さんはそんな問いを抱え、マルセの存在を語り継ぐ。【鵜塚健】
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