海難記録の末尾付近。ふすまの丸い引き手跡が残る=同館で2024年5月30日、松倉展人撮影
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 ふすまの下張りに使われた古紙には、参勤交代時の殿様の一大事が克明に記されていた。愛媛県歴史文化博物館(西予市)は今春、伊予宇和島藩の支藩・吉田藩の藩主が乗る御座船(ござぶね)が瀬戸内海で暴風に遭い、危機一髪で脱出した1769(明和6)年の難破記録を常設展示品に加えた。ふすまの丸い引き手の跡もくっきりと残る古文書から浮かび上がってきた255年前の海難とは――。

 同館の井上淳・学芸課長(日本近世史)によると、下張りに使われた文書は2017年、宇和海に浮かぶ同県宇和島市・戸島(とじま)の歴史団体から館に寄贈された。9枚が二つ折りでとじ込まれたもので、戦後に長く保管したという旧漁協の組合長は故人となり、来歴は不明という。

 同館の分析で判明した範囲では、文書には江戸中期の1747~69年の出来事が整った書体でつづられている。1769年3月23日、参勤交代のため大坂(大阪)に向けて進んでいた吉田藩の御座船は兵庫・明石沖で南東からの暴風と荒波に襲われた。「御船進退就不自由(おふねしんたいふじゆうにつき)」と生々しい。

 仕方なく大碇(おおいかり)を下ろして船をつなぎとめ、藩主・伊達村賢(むらやす)は小姓頭、医師、船頭らわずか7人を連れて鯨船(小型軍船)に移り、明石藩の船手(水軍)の町に上陸。「其后右鯨船破損也(そのごみぎくじらぶねはそんなり)」と、転覆ぎりぎりの脱出だったことをうかがわせる。

「正確に、ありのままをつづっている」とふすまの下張りにあった海難記録を示す愛媛県歴史文化博物館の井上淳・学芸課長=同館で2024年5月30日、松倉展人撮影
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 明石藩の案内で水主(かこ)(船乗り)が住む家へ。村賢はようやく腰掛けて休むことができた。しばらく様子を見たものの、波はさらに高くなったため、航行をあきらめて山陽道沿いの大蔵谷宿(おおくらだにしゅく)(兵庫県明石市)の本陣で1泊。一行は翌日、陸路大坂に向かった。

 井上さんによると、この海難については愛媛県史(編さん委員会編)に「大坂に向かう吉田藩主伊達村賢の御座船が明石沖の暗礁で座礁」との短い記述がある。しかし、藩の唯一の編年史料「藤蔓延(とうまんえん)年譜」は同じ日程の参勤交代について記すのみで、海難には触れていない。これほど克明な記録は確認されておらず、「おそらく基となる藩の御用日記があり、そのダイジェスト版がこの文書ではないか」と井上さん。一方で、藩の年譜が海難を伝えていないことには「不名誉なことと捉えたのか、あるいは重要な記事ではないと判断されたのかは分からない」と説明する。同館は、船による参勤交代が危険と隣り合わせだったことを示す史料として2~4月の特別展で公開し、その後常設展示に加えた。

 紙が貴重だった時代、ふすまやびょうぶなどの下張りに「反故紙(ほごし)」がよく使われ、後世に新事実を伝える例は各地にある。吉田藩関連でも1793(寛政5)年に起きた大規模な一揆の真相に迫る文書が1991年になって旧家のびょうぶの下張りから見つかり、注目を集めた。【松倉展人】

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