上皇ご夫妻は28日、栃木県日光市を訪問し、上皇さまが終戦前の約1年にわたって疎開生活を送った旧日光田母沢(たもざわ)御用邸(現在は日光田母沢御用邸記念公園)の庭を散策された。疎開の経験は上皇さまが貫いてきた戦争の惨禍を繰り返すことなく、平和を強く希求する姿勢の原点となった。31日まで同市に滞在し、ゆかりの地を訪ねる。
上皇さまは学習院初等科5年だった1944年5月に静岡県沼津市に疎開。当時日本が防衛ラインと定めた「絶対国防圏」の一角、サイパンが7月に陥落すると、いったん東京に戻り、同月から日光田母沢御用邸に再疎開した。戦況の悪化に伴い、45年7月に奥日光の旧南間(なんま)ホテル(廃業)に移動し、そこで終戦を迎えた。
日光田母沢御用邸は大正天皇の静養先として1899(明治32)年に造られた。戦後の47年に廃止され、栃木県が修復・整備して2000年から公園として一般公開している。
28日昼、東武日光駅に到着したご夫妻は車で記念公園に向かった。公園では01年に植樹した常緑針葉樹のイチイの木の成長ぶりを確かめた。
イチイは上皇さまにとって思い出深い存在だったようだ。87年6月、旧御用邸を久々に訪ねた際、疎開時からあったイチイの木を見つけ、上皇后美智子さまに「このイチイの木はこんなに大きいとは思わなかった」などと話した。
96年7月に旧御用邸に立ち寄った際には木は見当たらず、切り株だけが残されていた。公園化された翌年の01年7月、ご夫妻はかつて木のあった場所にイチイの苗木を植樹した。
上皇さまは01年の訪問を和歌に残している。
一年(ひととせ)を過ごしし頃のなつかしく修復なりし部屋を巡りぬ
日光には上皇さまの同級生も疎開し、旧御用邸近くの東京大大学院付属植物園日光分園の建物などを教室として授業が行われた。
旧御用邸から移動した奥日光では、上皇さまは旧南間ホテルの別館に、同級生は本館で暮らし、少し離れた小屋で授業を受けた。一緒に疎開した同級生によると、湖で魚を釣ったり、山で野草を摘んだりして、食料の足しにしたという。
上皇さまは45年8月15日正午、昭和天皇が国民に終戦を告げた「玉音放送」をホテルの別館で聞いた。上皇さまの世話を担当していた東宮侍従(当時)の栄木忠常は、この日の日記に「悲痛ノ涙ヲ以テ一同陛下ノ玉音ニ接シタリ」と記録していた。
上皇さまが帰京したのは11月7日。後に、原宿駅に降り立った時の衝撃を「日光の疎開先から焼け野原の中にトタンの家の建つ東京に戻ってみた状況は、現在の東京からは、とても考えられないものでした」(93年12月の記者会見)と語った。
疎開先の日光への旅は、戦後70年の15年9月に計画されたが、直前に発生した関東・東北豪雨の被害を考慮して取りやめた。宮内庁は16年8月にも再度準備したが、熊本地震が発生して中止した。さらに17年5月に計画したものの、上皇さまに風邪の症状があったため実現しなかった。
美智子さまも群馬県館林市や長野県軽井沢町などで疎開生活を経験している。側近は「先の大戦の話題はいつもお二人の会話に上っており、疎開生活のことを我々に聞かせてくださることもある。かつて疎開された場に行き、戦中の国民生活をたどることは、上皇ご夫妻にとって大きな意味のあることなのではないか」と話している。【高島博之】
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