「私もあの弱い姿を頑張って見守っていたけど、やっぱり昔の横綱の体格とか、力ではなかった。そこら辺をちょっと分かってほしい。彼本人も多分弱い姿を見せたくない…」
この記事の画像(9枚)4月上旬、長い闘病生活を経て、54歳の若さで心不全により亡くなった、第64代横綱・曙太郎氏。その妻、曙クリスティーン麗子さんと2人の息子が、Mr.サンデーの取材に答えた。
家族が語る「横綱・曙」の素顔は、「日本人よりも日本人になりたい」との思いを抱き、「謙虚でいること、そして、誰のことも愛すること」を「一番大事」と家族に伝える夫であり、父だった。
世界に土俵入りを見せた誇り
1998年の長野オリンピック開会式で土俵入りを披露した曙氏。長年、曙氏の番記者を務めたスポーツ報知の酒井隆之氏は当時の様子について、「自分が締めている綱、雲竜型の土俵入りを世界に見せることができたと、その誇りというか、そういう喜びは記者に語っていました」「世界に相撲を紹介できたという、日本人の心としても想いとしてあっただろう」と振り返った。
また妻のクリスティーンさんも、「もう喜びましたよ。世界の前で土俵入りをするっていうこと、すごいもう緊張でやりました…」と話す。「日本人より日本人になりたい」と口にしていたという曙氏。妻から見れば、「不思議な人?オーラがあって、多分人生にはもう、こんな人には恵まれないのかなという感じの人」だったという。
我いまだ木鶏たり得ず
ハワイ・オアフ島出身の曙氏は、18歳の時に東関親方にスカウトされると、めきめきと頭角を現し、初土俵からわずか4年で初優勝を遂げた。同期入門だった若乃花・貴乃花兄弟よりも早く横綱昇進を果たすほど、その相撲人生は順風満帆に見えたが、外国人力士だからと後ろ指を指されぬよう努力していたという。
当時の様子について妻は、「散々叩かれていました。外国人だからっていうことで誰にも悪く言われないように努力して、マナーとか色々と考えて やってきてたんですよね。だから本当にもう家を出る時顔が変わるんですよ。家の中はもうパパの顔」と振り返った。
番記者だったスポーツ報知の酒井氏も、「謙虚な人なので、最初に来た記者には必ず敬語で接していました。本人も自覚していましたから、ハワイから来て、イチから修行に来ていて。エリートである若貴兄弟とは違うという意識はあった」と普段の姿を記憶していた。
さらに、横綱としての品格にも拘った曙氏は、「我いまだ木鶏(もっけい)たり得ず」という言葉を心に刻んでいたという。酒井氏が説明する。「木鶏というのは木で出来た鶏です。木鶏は微動だにしないわけですよね。でも、負けてバタバタとしてしまっているのが自分であると、悠然と微動だにしない木鶏に自分はまだ成り得ていないという名言です。だから、日本人らしい、日本人よりも日本人らしいというところになり得たんだと思います」。
酒井氏は、むしろ外国出身というよりも、若貴兄弟という国民的ヒーローの存在が、曙氏の苦労や葛藤を生んでいたのではと推測する。
若貴さんがいて…ライバルへの感謝
その葛藤が一番現れていたのが、若・貴・曙が、13勝2敗で並び、同期3人による優勝決定戦が実現した1993年の名古屋場所だった。二連勝すれば優勝が決まる巴戦の瞬間最高視聴率は、空前の66.7%を記録するほど、日本中が釘付けとなった。
その1戦目は、若ノ花を4秒足らずで押し倒し圧勝。続く貴ノ花戦も、あっと言う間に決着を付け、曙氏は2連勝で優勝を決めた。翌日のスポーツ誌の見出しは「正義の悪役」。
酒井氏は、「正義の悪役というのは、本来なら若貴対決を皆さんが見たかったところを2番で終わらせてしまったというところでの悪役。勝って何も悪いことしてないから正義なのですが」と説明する。当時の様子については、「決して喜ぶわけでもなく、悲しむわけでもなく、泰然自若とした表情をしていた。それが本当に、日本人らしい…」と振り返った。
そして、クリスティーンさんも「あの2人がいなかったら、曙は1人だった。あっちをずっと見てきて追いかけてきたから、それはもう超えようとしていた。彼はが『若貴さんがいて、僕がこうやって上がってきた』とよく言っていた」と話してくれた。ライバルにまで感謝の心を忘れなかった。
史上10番目となる優勝11回を誇る横綱・曙。やり尽くした思いがあったのだろう、両膝の痛みが限界を迎え、引退会見を開いた際には、「もう悔いはないです。横綱まで上れて、もう本当、普通の人にはできないような経験をさせてもらって、本当に感謝の気持ちでいっぱいです…」と言い切った。
その引退から2年後、誰もが驚く選択をする事になった。格闘技への挑戦だ。
「お前が望んでいる試合なら、何でもやってやるよ!」
当時の様子について、クリスティーンさんは「その時はもう彼に任せました。それは本人がやりたかった。NOって言ったら可哀想じゃないですか。だって彼の人生なので。じゃあ応援しますと言いました。はっきり言って怖かったけど…」。
家族も不安を覚えた格闘技への挑戦。かつて東関部屋に入門し、横綱・曙の付き人を務めたプロレスラーのマンモス佐々木氏も、膝のケガを抱えた状況で引退しまたK-1に挑戦すると聞き「容易なことじゃない」と思ったという。
佐々木氏は3年で相撲界を諦め、一足先にプロレスの世界へ転身していたが、まさか、横綱が、一から茨の道を歩もうとは思っていなかったという。
プロレスラーとなった曙氏とリングで相まみえた際には、佐々木氏からシングルマッチを持ちかけ、曙氏が「お前が望んでいる試合なら、何でもやってやるよ!俺が教えたスピリッツ持ってちゃんと当たってこい!」と応じた。佐々木氏は「真正面からいろいろ教えてもらって、厳しくも優しくしてもらって、とにかく感謝ですね。こうやってこられたのも横綱のおかげだと思ってます」と感謝の言葉を述べた。
すべてを包み込む大らかさ…そんな父の背中を、息子達は見てきた。
「常に謙虚でいること」
曙氏の妻、クリスティーンさんが、2人の息子、兄のコーディー氏と弟のカーナー氏を紹介してくれた。
父についてコーディー氏に聞くと、「父としては完璧な人でした。常に謙虚でいること、そして、誰のことも愛することを厳しく言われました。それが、父にとっての一番、一番大事!」と語り、弟のカーナー氏も「私も同じです。いい思い出ばかり。ディナーに行ったり、旅行に行ったり…」。
子ども達は時折目に涙を浮かべながら、亡き父の姿を思い出していた。
14日、都内で行われた曙氏の葬儀には多くの相撲関係者や格闘技関係者らが参列した。
元大関・小錦の小錦八十吉さんは、「当たり前に外国人が、相撲界で活躍する時代になって、東関親方から僕に、それから曙・武蔵丸、なんとか世界的に相撲をもっと知ってもらうために、ハワイ勢よく頑張ってくれましたよ。歴史に残る人でもあるし」と故人を偲んだ。
ライバルだった元横綱・若乃花の花田虎上さんは、「本当に友であるし、本当に苦しい時から一緒にいたのでライバルというか、もうなんか言葉にあらわせない存在です」「本当に曙がいて、彼にだけには負けたくないという気持ちがすごく強かったから、弟・貴乃花もそうだし、曙と三人で頑張って。魁皇もいますしね、すごく良い時代で過ごせたなと思っています」「もう、これからは、ゆっくり天国で過ごしてもらいたいと思っています」と、早すぎる死を悼んだ。
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。