なぜ人々は結婚しなくなってしまったのだろうか。まず「なぜ結婚するのか」から考えてみよう(写真:Getty Images)

少子化は現代において自然な結果である。同時に、未婚化、独身率が上がっていることも当然の現代的現象であり、この主因は近代資本主義にある。

前者の少子化については、この連載の「『少子化は最悪だ』という日本人は間違っている」で議論したので、今回は後者の話をしよう。

少子化の解決策が難しいワケ

この連載は競馬をこよなく愛するエコノミスト3人による持ち回り連載です(最終ページには競馬の予想が載っています【2024年1月5日編集部追記】2024年1月1日、山崎元さんは逝去されました。心から哀悼の意を捧げ、ご冥福をお祈りします)。記事の一覧はこちら

近代においては、賃金労働化・都市化が進み、共同体が崩れ、核家族化・個人化が進んだ結果、社会が流動化した。商品化・市場化・資本の動員化という経済的流動化と、社会的流動化とが相互のさらなる流動化を促進した。

日本でも「イエ」制度が崩れた。しかし、流動化は中途半端だった(逆に言えば、社会の重要な部分の完全な流動化を免れた)。

そのため、戦後、アメリカに迫られた結果として(あるいはアメリカ的なカルチャー、社会の世界的流行により)さらなる流動化が生じ、戦後、社会の流動化が部分部分で異なったスピードで進んだため、さまざまな移行過程の歪みが社会の至る所で生じている。

その1つが、男女の社会における役割分担のあり方であり、移行過程の現象として、少子化、晩婚化、未婚化、離婚率の上昇が起きている。

したがって、少子化対策を局所的な反応として行っても無効であり、対策を取るなら、社会全体に働きかける必要がある。しかし、それでも社会の変化の大きな流れにはあらがえないから、効果は小さいだろう。

解決策は、この社会の構造変化の移行過程の終了を待つしかない。そのとき、現在の欧米と同じような状況になる可能性があるだろう。

ただし、それが良い社会であるかどうかは別問題である。良い社会にするためには、政策として改善を積み重ね、試行錯誤を行い、現在の社会のメンバーである、われわれが将来のために努力することが必要である。

このような構造はいわばマクロ構造であるが、それと同時に、ミクロ構造的な面においても、資本主義の発展が(終盤に向かうことにより)、人々に「結婚」という「財」を避けるように仕向けているのだ。この経済的現象としてのミクロ構造が今回の主題だ。

そもそも人々はなぜ結婚をするのか

世間では、未婚化の理由として、貧困や経済的不安定性を挙げている。政策マーケットとしては、そのために、所得をどう支えるか、給付金を配るか、という議論ばかりしている。

これも前出の記事に書いたとおり、まったく間違っているのだが、そもそも「なぜ結婚しないのか」ではなく、「なぜ結婚をするのか」を考えるべきだ。

そのほうが生産的な議論であるのは、前提が大きく変わったからだ。昭和の(というよりも19世紀の価値観の)社会では結婚することが大前提であったが、21世紀では結婚しないことがデフォルトなのだ。「なぜ結婚する必要があるのか」という問題をクリアしなければ、結婚までたどり着かないのである。結婚しない理由ではなく、結婚する必要がある理由を探す必要がある。

では、そもそも、人々はなぜ結婚するのか。

現在においては、いわゆるおめでた婚がいちばんの理由だ。21世紀初頭に、政府の家計調査のデータを見ていたときに驚いたのは、10代および24歳までの世帯主の家計が既婚である場合は99%子供がいたという事実を発見したときだ。子供ができたならば結婚はしたほうがいいと考えた人が多かったであろう。

これに次ぐ第2の理由は、子供が欲しいから結婚するというものである。第1と第2は順番の違いだけであり、本質は同じだ。そして、その本質は、1つは「子供」というものだが、もう1つは結婚が「必需品」であるということである。

結論を先取りすれば、21世紀に人々が結婚しなくなった理由の2つのうちの1つは、「結婚」という「財」が「必需品」から「ぜいたく品」に変わったからである。

19世紀的な価値観の社会においては、結婚は必須だった。社会から、世間から、家から、強制された。しかし、今や義務ではない。

社会的な義務でない場合、結婚する理由はかつては経済的理由だった。女性は現金を稼ぐ機会が限られていたから、稼ぎのある(または資産のある)男性と結婚する必要があった。

男性は世間から結婚しないと一人前でないと見られていたから、社会的に成功するためには、結婚する必要があった。だから、結婚が義務ではなくなった昭和においても「必需品」であった。

しかし、それは平成では崩れ、結婚は「選択肢」となった。するかしないか、選べるようになったのである。「なくても生きていける、でも、あったらもっと幸せかもしれない」。人々は、幸せを増やすために結婚するかどうか考えるようになったのである。それまでは生きるための必需品だったから、これは大きな変化だった。これにより婚姻率は低下を始めた。

しかし、離婚率の上昇のほうが顕著だった。それまでは義務あるいは必需品だったものがそうでなくなったので、彼ら(彼女ら)は「結婚していない状態」を選択したのである。

しかし、21世紀に入って婚姻率の低下は加速した。その理由は何か。

結婚は「必需品」から「ぜいたく品」に変わった。しかし、「ぜいたく品」にも2種類のぜいたく品がある。それは、「ハレ」の日のぜいたく品と、「ケ」におけるぜいたく品である。結婚式はハレの日である。しかし、結婚生活は日常だ。

現代における日常の「ぜいたく品」とは何か

現代における日常の「ぜいたく品」とは何か。これが現代資本主義の本質である。すなわち、現代資本主義における経済成長とは、日常におけるぜいたく品の膨張過程であるからである。

資本主義が1492年のクリストファー・コロンブスのアメリカ大陸到達に象徴されるように、社会経済の流動化により始まった。その後、略奪などによる資本蓄積、それらの争奪戦という戦争を経過する中で、第1次産業革命が起き、商品市場化が進むが、経済成長は目立っては起きず、それは内燃機関と電気による第2次産業革命まで待たなければならなかった。

そして、第3次産業革命といわれる現代のコンピューター、IT、AI革命は、第2次産業革命ほどの生産性の向上をもたらしていない。生活の変化も19世紀後半から20世紀前半(アメリカにおいて。欧州は少し遅れ、日本はさらにその後)ほどではなかった。

これが、アメリカの経済学者、ロバード・ゴードンの設定した、最も重要な経済成長における謎(“The Rise and Fall of American Growth”, 2016)である。これは、ローレンス・サマーズ元財務長官らとの世界金融危機(リーマンショック)後の長期停滞論の論争としてもクローズアップされた。

第2次産業革命が決定的に重要な役割を果たした

サマーズ氏らは長期的に需要が不足していると主張し、大恐慌後の財政出動のような公共事業を主張した。一方、ゴードン氏は供給側の要因を挙げ、生産性の上昇率が低下している、第2次産業革命のインパクトに比してIT革命は広がりが小さく、供給側の要因で成長力自体が落ちており、19世紀後半から20世紀前半の奇跡の世紀は一度限りのものだと主張している。

ゴードン氏によれば、第2次産業革命の影響の広がりは、経済における生産性上昇・生活の改善において、歴史上、唯一無二のものだとし、これが奇跡の成長をもたらしたとしている。

私の考えは、第2次産業革命が決定的に重要だという点では一致しているが、その理由は異なる。

第2次産業革命により、家庭に電気が届いた。家電が生まれた。そして、「三種の神器」と言われる洗濯機、掃除機、冷蔵庫が登場し、水道、電気、ガスが家庭にネットワークとして届き、家事労働は一変した。

それまでは、家事労働ですべての時間を使っていた主婦が、それらから解放され、自由になったのである。そして、彼女たちは外に出て、賃金労働を行うことができたのである。

これは彼女たちにとって幸せであったかどうかは議論があるが、経済にとっては市場における労働力が倍増したのである。ここに生産力が高まり、経済は大きく成長・拡大したのである。この労働力の増加というのは、ゴードンが言っていることである。

しかし、もっと重要なことがある。それは「暇」が生まれたことである。これが資本主義経済を徹底的に変えたのである。家事労働から解放されて、賃金労働をするようになったが、残りの時間は「余暇」となった。

レジャー消費で儲けることが資本主義の中心に

ここにレジャーが生まれた。このレジャー消費で儲けることが資本主義経済の中心となったのである。主役は供給側の生産者、技術革新により何が生み出せるかではなく、暇を持て余した消費者が何で暇つぶしをするのかということに移ったのである。ここに消費者主導の経済が始まったのである。

これは、現代では、部分的にはよく知られている戦いである。従来ならばテレビを見る時間をネットサーフ、動画、SNSが奪い、テレビ産業が衰退しているという話が典型である。

しかし、これは20世紀の大量消費社会を貫く、最も重要な論点なのである。買い物は、必需品を買いに行くという家事としての「仕事」から、欲しいものを買うという行為であるショッピングという「レジャー」になった。だから、必要性ではなく、華やかさや魅力が消費財における最重要要素になったのである。

そして、この余剰消費は儲かる。なぜなら、予算制約もあいまいで、欲しい理由もあいまいで、実用性もあいまいだから、うまくやれば、コストをかけずに爆発的に売れるのである。大衆・群集社会においては、ブームを作れば一攫千金となり、合理的な生産者は必需品の市場からこちらのマーケットへ殺到した。

私は、これが20世紀の奇跡の経済成長、一度限りの経済の膨張の最大の理由だと考えている。歴史的に余暇の誕生は一度限りであり、それをもたらしたのが第2次産業革命なのである。第3次産業革命は、この余暇を奪い合うビジネス戦争における技術革新の戦いなのである。テレビもスマートフォンもSNSもネットショッピングも、余暇の中での消費の奪い合いの手段にすぎないのである。

これらの余暇消費を、私はエンターテインメント消費、エンタメ消費と呼んでいるが、一見、「ハレ」の消費が目立つ。ゴールデンウィークの旅行消費、華やかな結婚式と披露宴。しかし、時間のほとんどは日常である。そして、日常的に時間が余り、暇になったのである。

暇な日常ではどうなるか。さびしくなるのである。この暇と寂しさを紛らわせる消費が、日常的な暇つぶし、寂しさを紛らせる「ケ」の消費、現代の消費の大部分となるのである。

そして、日常的だから予算制約がある。カネもかからず、日常的に暇がつぶせる、必需品ではない、ぜいたく品。これに対する最有力候補が「結婚」であったのである。

恋愛は「ハレ」だ。激しい恋愛は寂しさを忘れさせる。しかし、その後はさらなる寂しさが訪れる。持続可能で、安定的で、帰る家があり、温め合う人がある。結婚は寂しさを紛らわせる最有力選択肢となったのである。19世紀に義務だった結婚が20世紀になり、必需品からぜいたく品、選択するものになり、寂しさを紛らわせる最有力選択肢となったのである。

なぜ結婚は21世紀に魅力を失ったのか

さて、この結婚が21世紀に魅力を失ったのはなぜか。結婚という選択肢を取らなくなったのはなぜか。

それは、21世紀には日常的に寂しさを紛らわせる消費手段が多数登場したからである。スマホをいじっているのは寂しさを紛らわせるため。SNSはもちろんそうだし、動画も暇つぶしで寂しさも一時的に忘れる。ゲームはその最高の手段だ。伝統的には酒もそうだし、麻薬も、ギャンブルもそうかもしれない。ギャンブルにはまった水原一平さんは、いけないことだが、きっと寂しかったのではないか、と個人的には想像している。

酒、麻薬、ギャンブルは、中毒性があり、禁止されている。一方、テレビ、スマホ、SNS、動画、ゲームも時間制限が必要だという議論があるのは、中毒性があるからだが、もはや若い世代には普通の日常として、社会的に後ろめたいことではなく、普通に趣味はゲームといえる社会になっている。

そうなのだ。結婚しなくなったのは、スマホとゲームがあるからなのだ。「ハレ」のエンターテイメント財と違って、費用は予算に応じて調節できる。日常的な「ケ」のエンタメ財の登場、発展、成熟、社会的受容により、世の中にあふれるエンタメ消費財が、結婚という「財」の代替的手段として選ばれるようになったために、21世紀の婚姻率は低下したのである。

そして、このエンタメ財の発達こそ、近代資本主義の最終局面の特徴である。ゆえに、婚姻率の低下は資本主義発展の当然の帰結であるといえるのだ。

最後にもう1つ、資本主義が離婚率を高めた理由を挙げておこう。

なぜ資本主義は離婚率を高めたのか

資本主義とは、流動化である。そして、流動化されたものの変化である。新しいもの、変化すること、それ自体に価値があるようになった社会である。

それにより差別化し、別のぜいたく品(前述のエンタメ品でも)から消費者を奪ってくるのである。スピード勝負。こうなると、すべてのプレーヤーが動こうとする。変化しようとする。前と違うものを生み出し、違うことをしようとする。

そうなると、必然的に将来は予測不可能になる。毎日の日常、繰り返しの安定した生活なら、明日に何が起こるかわかる。社会全体でもわかる。しかし、流動化し、変化を追い求める社会では、明日の予測が立つわけがない。だから、資本主義が加速すればするほど、将来はわからなくなる。

現在、もはや将来予測はできない。その理由は、前述の流動化・変化が20世紀初頭までは生産者側の競争によるものだったのが、それ以後、消費者側の変化、消費者の気まぐれにより経済社会が変化するようになったからである。

生産者が消費者の暇つぶしのエンタメ品需要の獲得競争をしているから、技術的な変化ではなく、消費者の嗜好の変化に対応して企業は予測し、行動しなければいけないが、これは非常に難しいのである。

消費者は気まぐれだし、エンタメ品を消費しすぎて、飽きるのが早くなってくる。だから、21世紀、さらに企業は変化の加速を求められている。となると、設備投資は難しくなる。技術的・品質的には世界最高のもので、この先10年は抜かれないと思っても、つまり、技術的な賞味期限が10年あっても、消費者は1年で飽きるかもしれない。

この現実を直視しないまま、技術的優位性、規模の生産による価格低下だけを狙って大規模な投資をした、シャープなどの日本企業は21世紀、失敗を重ねた。

20世紀には長期にコミットすることが価値で、競争優位をもたらしたが、21世紀には投資は2年で回収しないと消費者は移っていくのである。

結婚という投資を短期に回収するようになった

だから、アップルやファーストリテイリングのように他社に投資させるか、TSMCのように設備投資を巨大にするが2年で回収できるように、世界中の需要を取り尽くそうとする。これが、21世紀に「勝者総取り経済」になった理由である。

そういうことが成り立たない限り、企業としてはビジネスが成り立たないからだ。勝者総どりにならない限り、参入しないのである。

離婚率の上昇も、これとまったく同じ構造である。現代社会は、経済の影響を受けて、変化が速くなった。一生のことは約束もできないし、変化は当然だ。結婚も衣替えが必要だ。そして、それはお互いわかっている。だから、21世紀の離婚は、泥沼もあれば、「離婚後も良い友達」もあるのである。

つまり、結婚という投資を短期に回収するようになり、一定期間の幸せを得て、投資の回収が終われば、次の投資に移っていくのは合理的な選択肢となりうるのである。だから、離婚率の21世紀におけるさらなる上昇も、資本主義発展の必然の帰結なのである。

(本編はここで終了です。この後は競馬好きの筆者が週末のレースを予想するコーナーです。あらかじめご了承ください)

競馬である。

この週末はクラシックレースの合間に当たり、21日には京都競馬場で読売マイラーズカップがある(G2、芝コース、1600メートル)。

私には阪神マイルのイメージが強いが、近年は京都で行われているレースだ。だが、最後の直線に坂のある阪神マイルコースのほうが、底力が試されることが多く、京都マイルは軽いスピード馬でも勝てる。これは安田記念とマイルチャンピオンシップの違いと同じである。

しかし、過去のレースを見ると、京都開催になってからも、勝ち馬のほとんどが大物で、これはレーススケジュールによるものだろう。安田記念への最適なたたき台となっている。

読売マイラーズCの本命は「断然の格上馬」で勝負

ということで、本命はセリフォス(2枠3番)。断然格上だが、問題は100%の出来とは言えないと調教師自らが認めており、まさにたたき台で、そこだけだ。

2強ムードで、もう一方のソウルラッシュ(7枠14番)は体調万全、絶好調の雰囲気。ただ、こういうときは、私は格上馬を買いたい。しかも、いまのところ、セリフォスが2番人気見込みのようである。馬連1点が無難で、平和だが、あえてセリフォスの単勝で。

※ 次回の筆者はかんべえ(吉崎達彦)さんで、掲載は4月27日(土)の予定です(当記事は「会社四季報オンライン」にも掲載しています)

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