原稿用紙の取り扱いについて話す相馬屋源四郎商店11代目の長妻直哉さん=新宿区で
◆「文房具は裏方」老舗の心意気
広々とした奥行きある店内は、表通りのにぎわいがうそのような静けさに包まれていた。ペンやカードなどなじみの文具を横目に進むと、一角に置かれたショーケースが目に入る。中にはマス目の色や形、用紙サイズもさまざまな原稿用紙が整然と並んでいた。「紙問屋相馬屋」と印刷された紙。かつて商品を納品する際に使用されていた
さかのぼること江戸幕府の開府前後ごろ。神田川沿いで紙すき職人をしていた先祖・源四郎が「紙はぬれたら駄目になる」と現在の場所へ移り、店を開いたのが始まりだ。江戸城や関東一円の神社仏閣に紙を納め、江戸中後期には和紙の仕入れと販売もスタート。事業を拡大していった。 あまたの名家にも愛された。当時の顧客録には武家や公家、宮家まで誰もが知る名が連なる。ただ相馬屋は代々、これらの詳細を明かして誇ることはしなかった。理由を尋ねると、長妻さんがはにかんだ。「『文房具は仕事や勉強を支える裏方。同じように、決して前に出るな』。父から常に言い聞かされたことです」印刷の色や行間の余白の有無など多くの種類が用意されている
明治期。客から「頼んだ大きさと違う」と言われて持て余した西洋紙を店頭に置いていると、近所に住む作家の尾崎紅葉が通り掛かり、こんなことを言った。「私は物書きなのだが、こういうのに、マス目を入れた紙を作ってはどうか」◆多くの文豪が使用 博物館の展示資料にも
まだ新しい印刷技術を駆使して生まれた原稿用紙は、夏目漱石、北原白秋、志賀直哉ら多くの文豪に使われた。今でも「博物館の展示資料が、おたくの原稿用紙だった」と訪ねてくる客がいる。「たくさんの方に手前どもの紙を使っていただいた」。照れくさそうな笑顔には、どこか誇らしさもにじむ。 社会は猛スピードで変わり続け、「書く」ための紙とペンの役目は瞬く間にスマートフォンなどの電子機器に取って代わられた。「文学すら『書く』から『打つ』に変わってきている時代の流れには逆らえない」。長妻さんは言う。ただ、こんな思いも抱いている。「『書く』ことでしか伝わらない思いや、生まれない文学は必ずある。そのお役に立てたら」。文豪の街で、これからも相馬屋の歴史を紡いでいく。夏目漱石の門下生、森田草平の原稿。相馬屋の原稿用紙が使われている
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