幕末の創業から161年を数える東京都福生市の蔵元「石川酒造」は、日本酒の代表銘柄「多満自慢(たまじまん)」を柱に、クラフトビールや飲食店などを幅広く手がける。18代目当主の石川彌八郎(やはちろう)さん(59)はハーモニカ奏者としての顔も持ち、酒蔵でライブを楽しめる趣向を凝らす。老舗蔵元の思い切った経営戦略を後押ししたのは、蔵に残されていた歴代当主たちの日記だった。(山田晃史)

ビールの製造に使用していた釜の前で石川酒造の歴史を説明する石川彌八郎社長=東京都福生市で

◆21世紀初めに経営危機

 21世紀の幕開け直後、同社は経営危機に陥った。日本酒市場は1973年をピークに低迷。バブルが崩壊して7億円余の負債を抱え、従業員をリストラせざるを得なかったという。  福生市長も務めた先代の後を継ぎ、石川さんが社長に就いたのは2002年。「これからどうすればいいんだろう、って。そんな時に読み始めたのが、歴代当主の日記でした」  日記は、最も古いもので1600年代半ばにさかのぼる。これらの文書をまとめた「多満自慢 石川酒造文書」(全9巻)によると、もとは農業で、地域の公務も担う名主だったという。

石川家の歴代当主の日記を整理して書物にした「多満自慢 石川酒造文書」=石川酒造提供

◆「チェンジ→チャレンジ→チャージ」

 酒造りは13代目が1863年、多摩川の対岸にあった酒蔵を間借りしたのが始まりだ。14代目が現在地に移転し、ビール醸造にも挑戦。現在の価値で約1億5000万円を投じたものの、杜氏(とうじ)が病にかかるなど継続が難しくなり撤退した。

1927年ごろの石川酒造=石川酒造提供

 転機は戦後にも。日記には「石川家の本業は農業であり、酒造は副業である」と書かれていたが、農地改革でほとんどの農地を失った。「それで本格的に酒造りをやらなきゃいかん、となったわけです」と石川さん。戦後まで酒造りが本業ではなかった事実に、衝撃を受けたという。  「日記をひもとくと、みんな時代の変化に合わせてやってきた。『チェンジ→チャレンジ→チャージ(充電)』の繰り返し。酒にしがみつかなくていいんだよって、僕を助けてくれた」

◆ビール醸造に再挑戦

石川酒造の日本酒「多満自慢」(右)やビール「TOKYO BLUES」=東京都福生市で

 石川さんは、明治期に失敗したビール醸造に再挑戦。「多摩の恵」と名付けて販売し、今やビールの売り上げが日本酒に迫るほどに。約4000坪の本社敷地には国の登録有形文化財に指定された酒蔵が並び、酒やビールに合う料理を出す飲食店や、宿泊できるゲストハウスも。キャッチフレーズはずばり「酒飲みのテーマパーク」だ。  「時代や手段は変わっても地域の誇りとなり、活力を与える存在でありたい」。自身も毎日日記をつけ、次の100年に志をつなぐ。

石川酒造の歴史を説明する石川彌八郎社長



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