撤去されたフルベッキ写真=長野県東御市の雷電展示館で2024年6月18日午後1時52分、早川健人撮影
写真一覧

 坂本龍馬や西郷隆盛、高杉晋作ら幕末の志士44人を撮ったとされる集合写真が長野県内の資料館から12月中旬、ひっそりと撤去された。集合写真は研究者の間で「写っている人々は龍馬らではない」という評価が既に固まっているにもかかわらず、いまだに「幕末オールスターの集合写真」といった風説が流れ続けている。なぜ消えないのだろうか?

きっかけは肖像画家の論文

 展示をやめたのは、長野県東御市の道の駅「雷電くるみの里」の中にある資料館「雷電展示館」。

 雷電は史上最強とうたわれた江戸時代の名力士で、今年11月に記者が訪れたときには、元大関・琴欧洲の手形や元小結・高見盛のサインとともに飾られていた。

道の駅「雷電くるみの里」にある雷電為右衛門像(左)=長野県東御市で2024年11月12日午後3時32分、早川健人撮影
写真一覧

 集合写真は、佐賀藩や明治新政府に雇われたオランダ生まれの教師フルベッキ(1830~98年)父子が中央に写っていることから通称「フルベッキ写真」と呼ばれている。

 風説が生まれるきっかけは、1974年と76年に肖像画家が雑誌に発表した論文だった。「龍馬や西郷、高杉、大久保利通、陸奥宗光らが写っている」と主張し、注目を浴びた。撮影時期は高杉と龍馬が1867(慶応3)年に相次いで亡くなっていることから、65年だとした。

 論文ではフルベッキ父子以外に写っている44人のうち二十数人の氏名を「断定または推定」しただけだったが、その後、世の中に流布したフルベッキ写真は44人全員の氏名が書き込まれ、額に入れて販売もされている。

定説では佐賀の藩士

勝海舟と坂本龍馬の師弟銅像=東京都港区で2016年9月10日、望月亮一撮影
写真一覧

 だが、定説は龍馬らではないとする。佐賀藩が長崎に設けた藩校「致遠(ちえん)館」でフルベッキに学んだ藩士や同僚教師たちで、明治維新後の撮影という。

 根拠の一つが1907~08年刊行の大隈重信監修「開国五十年史」。同じ写真が掲載されているが、写真説明は「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」となっている。早稲田大学を創設し、首相を2度務めた大隈は佐賀藩士で、到遠館でフルベッキとともに教えていた。

 「幕府側の勝海舟が維新前に倒幕側の志士たちと同じ写真に納まっているのは不自然で、彼らが一堂に会した記録も無い」という批判に対し、先の論文は敵味方に分かれた英傑たちが一緒に写っているのは困るという新政府の圧力で、致遠館の学生とされたと論じた。

坂本龍馬記念館「信ぴょう性低い」

 定説を裏付ける根拠はまだある。

 撮影者と場所は「幕末から明治にかけて活躍した写真家、上野彦馬が長崎に設けた営業写真館『上野撮影局』で撮影」とされ、定説と俗説ともに争いがない。古写真調査研究会副会長で大東文化大講師の倉持基(もとい)さん(54)は、上野撮影局が大人数を収容できる大型の撮影スタジオを設けた1868年以降の撮影であることなどから、「67年に暗殺された龍馬らだとするのは荒唐無稽(むけい)」と解説する。

 フルベッキは新政府の招きで69年に上京しているため、撮影時期は維新後の68年か69年ということになる。

 高知県立坂本龍馬記念館もホームページの質問コーナーに「明治のオールスターが勢ぞろいしている幕末の有名な写真がありますが、偽物説も多いようですが、真贋(しんがん)はどうなのでしょうか」と質問を掲載。回答欄に「この写真にかかれている人物の名前も、フルベッキ博士とその子ども以外は、信ぴょう性は極めて低い」と書いて、警鐘を鳴らしている。

元社員が展示に加える?

撤去される前のフルベッキ写真。坂本龍馬、西郷隆盛らの名前が書き込まれ、「志士たちが密かに長崎に集結した時の記念写真」という説明も展示されていた=長野県東御市の雷電展示館で2024年11月12日午後3時27分、早川健人撮影
写真一覧

 雷電展示館は、郷土出身の大関で、歴代最高の通算勝率9割6分2厘という記録を残した雷電(らいでん)為右衛門(ためえもん)(1767~1825年)の功績をたたえて、2003年に道の駅と同時にオープンした。入館無料で道の駅の土地と建物は市が所有し、運営会社に貸し付けている。

 市文化・スポーツ振興課によると、雷電の業績を紹介したパネルなど展示内容は開館当時、合併前の旧東部町の文化財担当職員が監修したが、フルベッキ写真はなかったという。

 来館者のブログなどから遅くとも10年ごろには展示されていたとみられ、運営会社は「現役社員で事情が分かる者がいないので、既に退職した社員の誰かが展示に加えた可能性がある」と説明する。

 写真には「志士」の名前が一人ずつ書き込まれ、「日本を動かした幕末維新の志士達」というタイトルが付いていた。「この写真は慶応元年二月、勤王志士たちが密(ひそ)かに長崎に集結した時の記念写真です」と説明文も添えられていた。

 相撲の資料館になぜフルベッキ写真が置かれるようになったのか。

 同じ説明文の中には信州・松代藩出身で開国派の思想家、佐久間象山に関する記述もあった。象山は雷電とゆかりがあり、館内には肖像画や象山が雷電の死を悼んで書いた文章などがある。雷電から象山、そして幕末の志士へと展示物が拡大していった可能性はあるが、詳細は不明だ。

 運営会社は「史実に反し、不適切」として展示から写真と説明文を外した。

風説今も消えず

撤去される前のフルベッキ写真(中央)。佐久間象山の肖像画、雷電を悼んで象山が書いた文章を刻んだ石碑の拓本、雷電の化粧まわしなどが展示されていた=長野県東御市の雷電展示館で2024年11月12日午後3時27分、早川健人撮影
写真一覧

 「フルベッキ写真は幕末オールスターの集合写真」とする風説は今も消えず、写真を題材にした小説も出版されている。

 倉持さんは「あんなに見事に明治維新という革命を成し遂げられたのは奇跡で、何か裏があるんじゃないかと思っている人たちの『そうあってほしい』という願望が背景にあるのではないか」と指摘する。

 そのうえで、「西郷隆盛の写真が残っていないため『ここに写っているのが西郷だったらいいな』とか、『薩長同盟が結ばれる以前に薩長土肥の各藩と勝海舟が密会し、明治維新の筋書きは決まっていた』とか、もし本当なら日本人のロマンをかき立てる話。それをもうけ話にしようとする人たちがいるのも事実」と嘆く。【早川健人】

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。