わずか2日間だけ、熊本県庁が一時的に置かれた場所が県中央部に位置する御船(みふね)町にある。なぜ熊本市外で、しかも2日間だけ置かれたのか――。町を訪ねてみると、あの「国内最後の内乱」と深い関わりがあることが分かった。
町名が、景行天皇の「御船(おんふね)」が着岸したことに由来するとされる御船町は、熊本市中心部から南東方向に車で約40分。町役場近くを流れる御船川を渡ると、白壁土蔵造りの建物が並ぶ「本町通り」にぶつかる。通り沿いの一角に「史跡 熊本県庁跡」の支柱が立っていた。
「川からこの辺り一帯が『県庁跡地』です」。案内してくれたのは町の観光ガイドを務める沖田昌史さん(69)。郷土史家だった父の影響もあり、町の観光協会などで郷土史を伝える活動をしている。「一帯」というのは通り沿いにある観光拠点「御船街なかギャラリー」や商工会事務所、民家など10軒以上が建ち並ぶエリアだ。
この中でも、ひときわ大きな造りの御船街なかギャラリーは1802年建築で、江戸時代末期の豪商、林田能寛(よしひろ)(1816~85年)宅の母屋だった。御船町はかつて熊本と宮崎、鹿児島を結ぶ水運陸路の要衝として栄え、能寛は精米や酒造、運送、金融、旅館など幅広く手がけた。私財を投じてこのエリアに蔵や旅館、私設の学校「文武館」を構えていった。
こうした地理的条件や建造物が整っていたことなどから、77年の西南戦争の際に熊本城内にあった県庁は、西郷隆盛率いる薩軍が迫り来る中、戦禍を避けるため能寛所有の蔵や宿など御船町を「疎開先」として選んだ。当時を伝える書物には、77年2月19日夕方ごろ、当時の知事や裁判官らが資料や財産などを持って到着。ところが、御船町にも危険が迫っていることを察知し、翌日には荷物を抱えて町を離れたため、「二日県庁跡地」と伝えられている。
能寛が築いた私設の学校跡地に建つ沖田さん宅には、父から譲り受けた「熊本県」の焼き印が刻まれた私設の学校の柱が今も大事に保管されている。沖田さんは「西南戦争では町の住民が犠牲になるなど、悲しい話も残っているが……」と触れたうえで、「要衝地だった御船の地を知ることで熊本の歴史が見えてくる。大事に伝えていきたい」と話した。【山口桂子】
熊本県御船町
国内で初めて肉食恐竜の化石が1979年に発掘されたことから「恐竜の郷」として発信している。山や川に囲まれる地理的条件などから、古来より戦地になってきた。熊本市や益城町、山都町などと隣接。2024年7月現在の町の人口は1万7241人。
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