1月の能登半島地震では、陶磁器が壊れる被害が相次いだ。普段使いの食器だけではなく、石川県の伝統工芸品「九谷焼」のつぼも割れたという。その中で、東京で暮らす美術家が「復興の支援がしたい」と、ある伝統技法を用いた修復活動をボランティアで続けている。
修復活動をしているのは、中村邦夫さん(52)。都会と能登の2拠点生活に憧れ、2023年9月、石川県輪島市と珠洲(すず)市で古民家を購入した。輪島市の古民家には作業小屋が併設していた。
いざ、生活を始めようとした矢先に地震が起きた。中村さんは東京にいて無事だったが、珠洲の古民家は倒壊し、輪島の方は小屋の倒壊は免れたが母屋が大きな被害を受けた。
能登での生活は暗礁に乗り上げたが、思い立ったのが、自分の「腕」を生かしたボランティア活動だった。
テレビ制作会社のディレクターとして「開運!なんでも鑑定団」などの番組作りに携わった経験がある。番組を作るための取材を通じて輪島漆器に興味を持ち、能登には1990年代から通っていた。祖父や曽祖父が金工職人で、年齢を重ねるにつれ「ものづくりや手仕事が自分のやるべき宿命」と感じていた。
そこで身につけたのが、「金継(きんつ)ぎ」という技法だ。割れたり欠けたりした器を漆で補修し、継ぎ目を金粉で装飾する。
中村さんは独学で技術を身につけた後、国内外の工房で研さんを積んだ。08年には、都内に金継ぎを教える教室も備えた工房「6次元」を開いた。
10年間で1000点以上修復
初めて災害時に金継ぎの修復ボランティアをしたのは、11年3月の東日本大震災の時だ。当時、金継ぎ専門の職人はほとんどいなかった。
発生直後に自身の工房で割れた器を直す取り組みを始めた。栃木県の旅館で、つぼや皿の所有者と一緒に金継ぎで修復するワークショップを催すなどしていると、宮城県や山形県の美術館や書店、カフェなどからも次々と声が掛かるようになった。
中村さんの手によってよみがえった器は、約10年間で1000点を超える。16年の熊本地震では、約100点の修復に関わった。
能登半島地震では、今年1月下旬からSNS(ネット交流サービス)などで活動を告知した。すると、これまでに石川県七尾市や金沢市などから依頼の品が30点ほど舞い込んだ。
平鉢など日常で使われる食器のほか、正月用に飾られていた九谷焼の花瓶など高価な品もある。揺れが大きく長かったため、細かく砕けたり、かけらがなくなったりした器も多い。
「粉々になって直しにくいものもあるが、やりがいがありますね」。都内の自身の工房に籠もり、傷ついた陶磁器を慈しむように見つめ、作業に打ち込む。
欠損している部分と同じ形の破片を、植物プランクトンのケイ藻が化石となってできた「ケイ藻土」や、木材などで作り、パズルを組み合わせるように一つずつ組み上げていく。継ぎ目部分は、漆で接着してから紙やすりで削って整える。最後に表面を金粉で覆えば完成だ。ケイ藻土や漆などは、地元産のものを使うようにしている。
明治期に作製された九谷焼のつぼの修理を依頼した金沢市の会社員、神田丈士さん(51)は「地震や、震災からの復興の記憶を伝えるものにしたい」と話す。
中村さんは、輪島と珠洲の被災した古民家を解体するつもりだ。ただ、今後も輪島の小屋を工房として使いながら、金継ぎを通して復興を支援していくという。4月下旬には、輪島の古民家の敷地に漆の苗木50本を植えた。
「すぐに捨てたり、買い替えたりするのではなく、直すことで愛着も湧く。美しく直すことで傷を肯定的に捉えて、地震の記憶を子孫に継承していくことに意義があると思っています」【阿部弘賢】
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